heavy metal

1983
アルカトラス 1983年12月にはデビューアルバム『 ノー・パロール・フロム・ロックン・ロール 』をリリース。日本盤の 伊藤政則

1983年12月にはデビューアルバム『 ノー・パロール・フロム・ロックン・ロール 』をリリース。日本盤の 伊藤政則 のキャッチコピーは「泣くがいい。声をあげて泣くがいい。」であった。プロデューサーは、イングヴェイの希望により、 アル・ディ・メオラ 等を手がけた デニス・マッケイ が務めた。

クイーンズライク 1983年 にリリースされたEPは、アメリカのバンドでありながら アイアン・メイデン

1983年 にリリースされたEPは、アメリカのバンドでありながら アイアン・メイデン などイギリスやヨーロッパのバンドに通じるものを感じさせるその音楽性が評判となり、イギリスやヨーロッパをはじめ世界的に賞賛を持って迎えられ、そしてその後バンドは「 EMI 」との契約をつかんだ。またこうした成功の中ジェフ・テイトはクイーンズライクに正式に加入することを決心し、ここでついにその後長く続くラインナップが完成されることとなった 。

トゥイステッド・シスター その後、バンドはテレビの音楽番組『The Tube』への出演を決めるとともに、メジャーレーベル「 アトランティック・レコード

その後、バンドはテレビの音楽番組『The Tube』への出演を決めるとともに、メジャーレーベル「 アトランティック・レコード 」と契約を交わした。 1983年 、同レーベルから最初のアルバム『ユー・キャント・ストップ・ロックンロール』をリリース。シングルカットされた「I Am (I’m Me)」は、 全英シングルチャート で18位を獲得した。第3弾シングル「You Can’t Stop Rock’n’Roll」の ミュージックビデオ も制作された。

1982
トゥイステッド・シスター 1982年 、ドラマーがA.J. ペロに交代。同年、N.W.O.B.H.M.ムーブメントがピークを迎えたイギリスへ渡る。

1982年 、ドラマーがA.J. ペロに交代。同年、N.W.O.B.H.M.ムーブメントがピークを迎えたイギリスへ渡る。

アクセプト (バンド) 1982年 、フィッシャーの脱退後、 ヤン・コウメット ~ ハーマン・フランク の加入を経て、アルバム『 レストレス・アンド・ワイルド

1982年 、フィッシャーの脱退後、 ヤン・コウメット ~ ハーマン・フランク の加入を経て、アルバム『 レストレス・アンド・ワイルド 』を発表。

トゥイステッド・シスター 1982年

1982年 6月、まずはイギリスのインディ・レーベル「シークレット・レコード」からEP『ラフ・カッツ』を先行リリースし、直後にデビュー・アルバム『アンダー・ザ・ブレイド』を発表した。

トゥイステッド・シスター 1982年8月、第22回レディング・フェスティヴァル3日目に出演し、喝采を浴びる。

1982年8月、第22回レディング・フェスティヴァル3日目に出演し、喝采を浴びる。

1981
レインボー (バンド) RAINBOW #8

RAINBOW #8(1981年11月 – 1983年 6月)

アクセプト (バンド) 1981年 、3枚目のアルバム『Breaker(邦題: ブレイカー〜戦慄の掟 )』発表時、英国では NWOBHM

1981年 、3枚目のアルバム『Breaker(邦題: ブレイカー〜戦慄の掟 )』発表時、英国では NWOBHM のムーブメントが起こっており、それに呼応する形で彼らの存在が認められていった。このころからマネージメントを引き受けるようになったマネージャーのギャビー・ホーク(現在はホフマンの妻でもある)の活躍もあり、バンドは ジューダス・プリースト の前座としてワールド・ツアーを行い、ヨーロッパのみならずアメリカでも高い評価を得る。

クイーンズライク 1981年 、 デモ をリリースすることを決めたザ・モブの4人は、オリジナル曲を作成し、4人で資金を出し合い、 レコーディングスタジオ

1981年 、 デモ をリリースすることを決めたザ・モブの4人は、オリジナル曲を作成し、4人で資金を出し合い、 レコーディングスタジオ を押さえ レコーディング に入った。しかしその時もまだシンガーがいなかったため、バンドは再びジェフ・テイトに協力を依頼した。バンドは「Queen of the Reich」「Nightrider」「Blinded」「The Lady Wore Black」の4曲をレコーディング。ジェフ・テイトは、そのときまだ詩がなかった「The Lady Wore Black」の作詞も担当した。しかし当時、「Myth」という自分のバンドで活動していたジェフ・テイトには、このときもやはりザ・モブに正式加入する意思はなかった 。