1984年 、ブラックモアはグローヴァーと共にディープ・パープルの再結成に参加。
1984年 、フランクが脱退したのちフィッシャーが再度加入。アルバム『 ボールズ・トゥ・ザ・ウォール 』を発表し、彼らの スピードメタル 、 ヘヴィメタル バンドとしての地位が確立される。『ボールズ・トゥ・ザ・ウォール』は商業的にも成功を収め、母国ドイツのアルバム・チャートに初登場を果たして59位を記録 。さらにアメリカでも自身初の Billboard 200 入りを果たし、74位を記録する 。 そして、ジューダス・プリースト等と共に、英国 ドニントンパーク で開催された第5回 モンスターズ・オブ・ロック に出演した。
1984年1月には初来日を果たした。イングヴェイはリッチーに憧れているとはいえ黒い衣装、白い ストラトキャスター 、ギターを壊すパフォーマンスと全てリッチーのコピーであるため客から失笑がもれた。だが、「テープの速回しじゃないか?」と噂されていたイングヴェイのメロディアスかつ強烈な速弾きは紛れもない本物であった。そして、この初来日の東京公演が収録されたアルバム『 ライヴ・センテンス 』をリリースする。しかし、観客が求めるものがイングヴェイの演奏であったことから他のメンバーから強い嫉妬を受け、次第にステージ上で喧嘩になるなどメンバーとの関係が悪化、イングヴェイは解雇に近い形でマネージャーのアンディ・トゥルーマンと共に脱退してしまう 。後任には(同じく速弾きを得意とするとはいえ)イングヴェイとはスタイルを異にする スティーヴ・ヴァイ を加入させ、1984年10月に再来日を果たした。初来日公演も再来日公演もライブ・ビデオが発売され好評であった。
EPリリース後のツアー終了後、クイーンズライクは ロンドン で最初のフル・アルバムのレコーディングに入った。 プロデューサー に ピンク・フロイド や ジューダス・プリースト との仕事で知られるジェームス・ガスリー (James Guthrie)をむかえ、 1984年 、1作目のオリジナル・アルバムとなる『ザ・ウォーニング (警告)』をリリース。EPよりさらにプログレッシブ要素を強めたそのアルバムでは、シングルカット前に「Take Hold of the Flame」がアメリカ以外の地域、特に日本でヒットを記録した。 1986年 にリリースされた2作目のオリジナル・アルバム『炎の伝説(Rage for Order)』では、さらにさまざまな音楽的要素を内包した複雑で洗練されたプログレッシブ・サウンドを確立。いずれも商業的にも中程度の成功を収めた。
1984年 、イギリスで実績を積んだバンドはアメリカへ帰国。5月には、サード・アルバム『ステイ・ハングリー』をリリース。このアルバムでバンドは世界的な人気を獲得し、ツアーも成功した。同アルバムは、翌年の夏まで200万枚以上のセールスを記録。シングルカットされた「We’re Not Gonna Take It」(全米21位)と「I Wanna Rock」(全米68位)のミュージックビデオも製作され、 MTV でも頻繁にオンエアされた。 1985年 3月、初来日公演。
RAINBOW #9(1983年6月 – 1984年 3月)
サード・アルバム『This Means War』( 1983年 )からは元ホワイト・スピリットのミック・タッカー(G)が加入して4人編成となり、より分厚いサウンドを披露。その後ブラブス兄弟が脱退するが、クリフ・エヴァンス(G)ら新メンバーを補充して『Honour And Blood』( 1984年 )『Tank』( 1987年 )を発表。しかしアルジーは、契約上の問題から活動を停止させた。
1983年、
1983年、 マイケル・シェンカー・グループ を解雇されたグラハムは元 ニュー・イングランド のゲイリーとジミーと共にバンドを結成する。グラハムは レインボー で共演した リッチー・ブラックモア に良く似た ギタリスト を探すためオーディションを行い、元スティーラーの イングヴェイ・マルムスティーン を獲得。(イングヴェイ本人の話では UFO の誘いも受けていたが、 フィル・モグ よりもグラハムの方が歌が上手いという理由でアルカトラスに加入したという。)
1983年12月にはデビューアルバム『 ノー・パロール・フロム・ロックン・ロール 』をリリース。日本盤の 伊藤政則 のキャッチコピーは「泣くがいい。声をあげて泣くがいい。」であった。プロデューサーは、イングヴェイの希望により、 アル・ディ・メオラ 等を手がけた デニス・マッケイ が務めた。