1992年3月、7thアルバム「 DOMESTIC BOOTY 」をリリース。同年5月、森川の脱退により解散を表明。同年7月の 日清パワーステーション のライヴを最後に解散。
1991年夏、期間限定のバンド 爆裂聖飢魔II としてシングル「夏休み」をリリースする。
さらには、映画主題歌となった「 赤い玉の伝説 」をリリースし、ヒットを記録する。
また同年、初の海外公演として ニューヨーク 、 ロンドン 、 セビリア においてもミサを行い、うちロンドンとスペイン公演は、活動絵巻教典(いわゆるVHS,DVD)『実録!欧州非常事態宣言』に、ロンドン公演だけは大教典『 LIVE! BLACKMASS IN LONDON 』に収められている。
1991年 に2ndアルバム『sigh no more』を発表。翌年に音楽的な問題からウリとウヴェが脱退、後任として自分たちのスタジオが入っているビルにある隣のスタジオでガンマ・レイの楽曲を練習していたヤン・ルバッハ(ベース)とトーマス・ナック(ドラムス)を迎え、 1993年 に3rdアルバム『インサニティ・アンド・ジニアス』を発表した。普遍的なハードロック要素の強かった前作での批判を受け、王道のパワーメタル、スピードを強調した、 スラッシー な作品であった。その後、 レイジ 、 コンセプション 、 ヘリコン らと共にドイツで行われたフェスティバルの模様を2本目のライブ・ビデオ『lust for live』と『the power of metal 』にて発表している。
1991年初頭、中間がバイク事故を起こしたため活動停止。しかし、中間とバンドメンバーとの活動方針に対する意見の相違が原因で中間は脱退。中間は脱退理由について「海外へのアプローチではなく日本向けのハードロックを日本語でレコーディングする」事への違和感を理由に脱退したと述べていたが 、柴田は2017年のBURRN! JAPANのインタビューでWikipediaの当項目に「海外へのアプローチをするという約束で加入させた中間が、バンドの活動領域が日本に留まっていることに耐えかね、脱退を申し入れた」と書かれていた件に触れ「そうした認識は全くない」とし、「彼にあったのだとすると、それが彼の真実であるんでしょうけど僕は全く違う(苦笑)。僕は海外に行かないと言ったことはないですね。海外レコーディングが中止になったのは僕のせいではなく 湾岸戦争 のせいですから」と、中間の考えとは違う理由を述べている 。同年8月、森川の知り合いを通じてオーディションに参加した当時20歳の清水昭男が加入。数か月後、レコーディングのために渡英。
1990年、突然ライヴツアーからの引退を宣言し、アルバム『 NO MORE TEARS 』を1991年にリリース。セールスはソロキャリアの中で最高を記録した。しかし1995年に『OZZMOSIS』を発表してライヴツアーを開始し、引退を撤回した。
1990年、「 白い奇蹟 」に続きバラード小教典「 BAD AGAIN 〜美しき反逆〜 」を発布し、テレビCMでも使われた。
同年、アルバム『 有害 』をリリースする。
1990年2月、次回作のアルバムのレコーディング終了後、浜松でのライヴを最後に福田が脱退。「即戦力となるギタリストが必要」と判断したバンドは3月には元ハリー・スキュアリーのギタリスト 中間英明 を加入させ、6thアルバム「NO SMOKE WITHOUT FIRE」をリリース。4月には韓国公演を行った。