アルバム『パラフェルネイリア』は1998年に日本で先行発売され、オリコン86位に達した 。同作には リック・ニールセン ( チープ・トリック )とジェイムス・ヤング( スティクス )がゲスト参加した。1998年9月には、初の日本公演を行う 。
1998年にDisinformationのデビューアルバムの制作が始まる見込みだったが、全メンバーの多忙なスケジュール下で同時にスタジオ入りすることが困難となった。一年の間に4人は徐々にばらばらになっていき、アルバム制作は一層実現から遠のいてしまっていた。この計画に対して決定的な打撃を与えたのは、1999年1月のソーンダースのヘロインの過剰摂取による死去であった。メンバー達は彼の死を知り深い悲しみに暮れた 。今まで公式発表はなされていないが、ステイリーが1999年7月のアリス・イン・チェインズのインタビューの中で、マッド・シーズンが解散したことを認めている 。
バトラー、シュースミス、そしてドラムのジェイソン・マッガンと共に、ジョン・バトラー・トリオは1998年にフリーマントルで結成され
「コワルスキー」を先行シングルに、『 バニシング・ポイント 』は1997年の6月に発売された。アルバムは ダブ の影響が色濃い作風となった。クリエイションと深い関係を持つライターの伊藤英嗣は「ダブからロックンロールまで多彩な要素が自然に消化されたアルバム」と評した 。プロデューサーは ブレンダン・リンチ が務め、セカンドシングルになった「スター」では オーガスタス・パブロ がピアニカで参加した 。「コワルスキー」のミュージックビデオは、1996年のシングル「 ザ・ビッグ・マン&ザ・スクリーム・チーム・ミート・ザ・バーミー・アーミー・アップタウン 」で競演した アーヴィン・ウェルシュ の監修の下、元ジーザス&メリーチェインの ダグラス・ハート が監督を務め 、モデルの ケイト・モス が出演した 。『 バニシング・ポイント 』は1971年アメリカで公開された ロードムービー で、公開から年月が経った当時でもカルト的な人気を持っていた。アルバムタイトルはこの映画から採られたもので、「コワルスキー」はこの映画の主人公の名前である。同曲中には映画の中から取られた台詞、音声がいくつもサンプリングされている。同年10月には エイドリアン・シャーウッド によるダブ・リミックス・アルバム『 エコー・デック 』が発売された。
バンド自体も、オリジナル・ギタリストのジーノ・マルティーノが復帰して インディーズ で活動を再開 。ほどなく、ジーノに代わる新ギタリストとしてモナコが加入。この頃、 ドニー・ヴィー と スティーヴ・スティーヴンス の共作による楽曲「SWEET MOTION」が、 松井五郎 により日本語詞を与えられて 氷室京介 のアルバム『 I・DE・A 』(1997年)に収録された。
1997年にマクレディ、ソーンダースそしてマーティンがマッド・シーズンを復活させようと試みたが 、ステイリーの健康状態は重篤なドラッグ依存によって脅かされており、彼は1996年7月のアリス・イン・チェインズのコンサート以降二度と公演をおこなうことはなかった 。それによりマッド・シーズンはボーカリストが欠員という状態になってしまった。ステイリーと共に活動が出来なくなったため、バンドは『Above』でゲストボーカルを務めライブにも登場したマーク・ラネガンを新しいボーカリストとして迎えた。フロントマンが交代したので、1997年の終わりにバンド名をDisinformationに変更した 。
1997年3月、レコードレーベルがデビュー当時に所属していたコロムビア・レコードに変わり、プロデューサーにケヴィン・シャーリーを迎えた12thアルバム『 ナイン・ライヴズ 』を発表。前作に続き全米チャート1位(Billboard 200)を獲得した。なお、当初の ディスクジャケット は ヒンドゥー教徒 からの反感を買いかねないということで、デザインが変更されている 。翌1998年の日本ツアーでは、“海外アーティスト初”となる4大ドームツアーを開催した(名古屋・大阪・福岡・東京〈2回〉の ドーム球場 に加え、さらに追加公演として横浜アリーナ公演も2回行った)。また、同年に公開されたスティーブンの長女で女優の リブ・タイラー がヒロインを務めたハリウッド大作『 アルマゲドン 』のテーマ曲に使用された「 ミス・ア・シング 」が、バンド史上初となる全米シングルチャート1位(Billboard Hot 100)を獲得 し、4週連続1位の大ヒットとなった。同タイトルは、MTV Video Music Awardsに於いて「ベスト・ビデオ・フロム・ア・フィルム」を受賞した 。同年10月には ライブ・アルバム 『ア・リトル・サウス・オブ・サニティ』を発表した。
1996年に自主制作のカセットテープ『Searching for Heritage』をリリースした。
1996年秋、イネスの提案から6ヶ月の休暇を挟んだバンドには、解散したザ・ストーン・ローゼズからベーシストの ゲイリー・モンフィールド が加入した 。「マニ」のニックネームを持つこの男は、シングルにもなった「コワルスキー」、そして「モーターヘッド」のカバーの2曲でベースを弾き、バンドに再び勢いを取り戻した。マッギーは「ここでバンドとしての在り方と自らの音楽を見直した」としている 。この頃からソングクレジットにはマニとダフィの名も加えられた。
バンドの人気が一段と高まるなか、彼らは唯一のアルバムのレコーディングをし、バンド名をマッド・シーズンに変更した。この名称は幻覚誘発性のあるキノコが生える時期の通称であり 、さらにマクレディ自身が「アルコールと薬物を乱用していた時期」を指している 。アルバム『Above』は、 ハート のアン&ナンシー・ウィルソン姉妹がオーナーを務めていたシアトルのバッド・アニマルズ・スタジオでレコーディングされ、まず10曲がマッド・シーズンとパール・ジャムのサウンドエンジニアであったブレット・イライアソンによって共同制作された。この作品にはスクリーミング・トゥリーズのフロントマン兼ソロ・アーティストのマーク・ラネガンによるゲストボーカルと彼が書いた歌詞も含まれている。マクレディは、「俺達はマッド・シーズンの全ての音楽を約7日間で完成させた。レインがボーカルパートを完了させるのにあと数日かかっただけだ。俺達は2回のリハーサルとショーを4回だけおこなった後ずっと集中して作品の制作に取り組んだんだ」と語っている 。アルバムは1995年3月14日に コロムビア・レコード からリリースされ、決定的・商業的な成功を収めた。1995年のうちにビルボード200において24位に上り詰め、このアルバムから「River of Deceit」(Mainstream Rock Tracksで2位、Modern Rock Tracksで9位)および「I Don’t Know Anything」(Mainstream Rock Tracksで20位)の2曲がシングルカットされた。そして『Above』は1995年6月14日にゴールド・ディスクに認定された。