dance-rock

1985
B-52's 1985年 、新作のレコーディング中に リッキー・ウィルソン が エイズ のため急逝。 1986年 に トニー・マンスフィールド

1985年 、新作のレコーディング中に リッキー・ウィルソン が エイズ のため急逝。 1986年 に トニー・マンスフィールド のプロデュースでアルバム『バウシング・オフ・ザ・サテライツ』を完成させるが、リッキーの死による影響で約2年間、活動を休止する。

U2 1985年 7月13日 、 ウェンブリー・スタジアム

1985年 7月13日 、 ウェンブリー・スタジアム のステージに立ったU2には、約15分間の出演時間が与えられた。バンドは「ブラディ・サンデー」に続いて「バッド」を演奏したが、演奏中、ボノはステージを降りて観客席のフェンスまで移動し、観客の女性を引き寄せて抱き合いながら踊るという即興的なパフォーマンスを披露した。このため演奏時間は予定を大幅に超過し、用意していた楽曲をすべて演奏することはできなかった。演奏後、メンバーやマネージャーのポール・マクギネスは、限られた出演時間を十分に生かせなかったことを悔やんだという。しかし、このパフォーマンスはテレビ中継を通じて大きな反響を呼び、U2はライブ・エイドに出演したアーティストの中でも特に印象的なステージを披露したバンドとして注目を集めた 。

1984
U2 1984年5月、U2はアイルランド・ミース県の スレーン城 ( 英語版 ) でレコーディングを開始し、同年 10月1日

1984年5月、U2はアイルランド・ミース県の スレーン城 ( 英語版 ) でレコーディングを開始し、同年 10月1日 に4作目のアルバム『 焰 』を発表した。本作では、それまでの作品で聴かれたロックやポストパンクを基調としたサウンドから音楽性を広げ、シンセサイザーやエフェクト、アンビエント的な音響などが取り入れられ、U2の音楽的転換を示す作品となった。また、本作からは「 プライド 」が全英シングルチャート3位のヒットとなり、「 バッド 」が代表曲の一つとなった 。

U2 1984年 末、ボブ・ゲルドフが提唱したエチオピア飢餓救済プロジェクト、 バンド・エイド のチャリティ・シングル「

1984年 末、ボブ・ゲルドフが提唱したエチオピア飢餓救済プロジェクト、 バンド・エイド のチャリティ・シングル「 ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス ( 英語版 ) 」にボノが参加したことを皮切りに、バンドは様々な社会的活動に深く関わるようになった 。その決定打となったのが、翌 1985年 7月に開催された歴史的チャリティ・コンサート、 ライブ・エイド への出演である 。

U2 この時期のもう一つの大きな音楽的変化は、バンドがルーツ・ロックへと目覚めていったことである。U2はパンクやポスト・パンクのムーブメントから直

この時期のもう一つの大きな音楽的変化は、バンドがルーツ・ロックへと目覚めていったことである。U2はパンクやポスト・パンクのムーブメントから直接誕生したバンドであり、 ブルース や カントリー といったロックンロールの伝統的なルーツを通ってきていなかった。しかし、1984年のスレイン城でのライブでボブ・ディランと共演した際、彼から直接「君たちはもっと音楽のルーツを学ぶべきだ」と指摘されたことや、その後のサン・シティのプロジェクト等で キース・リチャーズ (ローリング・ストーンズ)と交流し、彼から古いブルースの魅力を教えられたことが、ボノにとって自らの音楽的教養を見直す大きな転機となった 。

1983
B-52's 1983年 に スティーヴン・スタンレイ のプロデュースで3枚目のアルバム『ワーミィ・ワーミィ』を発表。

1983年 に スティーヴン・スタンレイ のプロデュースで3枚目のアルバム『ワーミィ・ワーミィ』を発表。

1982
U2 オクトーバー・ツアー中の 1982年 3月22日 にシングル「 セレブレイション 」をリリースしたが、またしてもヒットしなかった 。

オクトーバー・ツアー中の 1982年 3月22日 にシングル「 セレブレイション 」をリリースしたが、またしてもヒットしなかった 。

1981
U2 1981年 6月9日

1981年 6月9日 のロンドン公演をもってボーイ・ツアーが終了すると、U2は前作に引き続きスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え、同年7月からセカンド・アルバムのレコーディングに入った 。

B-52's 1981年 7月、6曲入りのリミックス・アルバム『パーティ・ミックス』を発表。同年9月、 トーキング・ヘッズ の デヴィッド・バーン

1981年 7月、6曲入りのリミックス・アルバム『パーティ・ミックス』を発表。同年9月、 トーキング・ヘッズ の デヴィッド・バーン をプロデューサーに迎え、グループはアルバム制作のためニューヨークのブランク・テープ・スタジオに入った。バーンはソロ・アルバム『キャサリン・ホウィール/回転花火』のレコ―ディングで多忙を極めていたが、依頼を引き受けた。しかしバーンとレコード会社との軋轢のせいで、6曲しか録音できず、1982年1月にEP『メソポタミア』として発表した。

1980
U2 こうした音楽性とステージ演出の転換によって、U2は1980年代に形成された生真面目で社会的・宗教的なイメージから大きく変化し、1990年代の

こうした音楽性とステージ演出の転換によって、U2は1980年代に形成された生真面目で社会的・宗教的なイメージから大きく変化し、1990年代の音楽シーンにおいて新たな存在感を示すこととなった 。