1978年6月、メンバーは全員学校を卒業し、それぞれの親から1年の猶予期間を与えられ、バンド活動に専念することになった。その後、ダブリンを中心に地道にライブを重ね、地元での支持を広げていった 。1979年、U2はCBS Recordsのアイルランド支社と契約し、9月2日、3曲入りミニ・アルバム『 スリー 』をアイルランド限定でリリースした。U2にとって最初の商業リリースであった 。
1978年 4月、地元インディー・レーベルのDBレコーズからデビュー・シングル「 ロック・ロブスター 」をリリース 。 ニューヨーク のライヴ・ハウス「 CBGB 」に出演していたところを、 アイランド・レコード のオーナー、 クリス・ブラックウェル に認められ、翌1979年に ワーナー・ブラザース・レコード と契約した。ブラックウェルのプロデュースの下、 バハマ の ナッソー でファースト・アルバムのレコーディングを行った。「ロック・ロブスター」と「52ガールズ」はこのとき再録音され、アルバム『 警告! THE B-52’S来襲 』は同年7月6日に発売された。 50’s スタイルの派手な衣装に、奇妙奇天烈でひねりのあるサウンドが特徴。当時勃興していた パンク / ニュー・ウェイヴ の新進アーティストとして注目を浴びる。同年11月、初の日本公演を行う。
その後、マクギネスは単なるマネージャーの域を超え、「5人目のU2」と呼ばれるほどバンドにとって不可欠な存在となった。1978年から2013年まで35年間にわたってマネージャーを務め、U2が無名の若手バンドから世界的なロック・バンドへと成長していく過程を、ビジネス面から支え続けた 。
そしてこの年の秋(1976年10月頃)、学校のカフェテリアで開催されたタレント・コンテストに出場し、フィードバックとして初めて観客の前に立ってギグを行った。この時は、マウント・テンプル校の生徒ではなかった年長のディックを外した4人での演奏であった 。
1976年 9月、学校の校内掲示板に「当方、ドラムセットにお金を無駄遣いしてしまいました。僕と同じようにギターにお金を無駄遣いした人はいませんか?」という一枚の貼り紙が貼られた 。
また、ロンドンで迎えたツアー最終日、U2の楽屋に2人の大物ミュージシャンが訪れ、バンドを激励した。1人は、1975年の『 明日なき暴走 』で一躍スターダムにのし上がり、評論家ジョン・ランドーから「ロックンロールの未来」とまで評された ブルース・スプリングスティーン 。そしてもう1人は、 ザ・フー のギタリストでソングライターでもある ピート・タウンゼント だった 。後年、スプリングスティーンは、「彼らの音楽は大きくて、エコーがかかっていた。彼らの音を初めて聴いた瞬間から、大きな空間で鳴っているところが想像できた。感情も大きかったし、アイデアも大きかった」と振り返っており、U2が将来スターになることを予見していた 。
U2のメンバーが通っていた マウント・テンプル・コンプリヘンシブ・スクール ( 英語版 ) (マウント・テンプル校)は、 カトリック 色の強いアイルランドにおいて、国内初の特定の宗教・宗派に属さない画期的な公立の男女共学・中高一貫校として設立された。当時のアイルランドは、1967年に導入された中等教育無償化政策により、貧しい家庭の子供でも大学進学を目指せる教育環境が整いつつあった 。
U2が登場する以前のアイルランドの音楽シーンは、国際的にはぱっとしないものだった。 ヴァン・モリソン 率いる ゼム が1960年代半ばにイギリスやアメリカでヒットを放ったものの、その成功は長続きしなかった。 ロリー・ギャラガー や シン・リジィ も世界的な成功とは言い難く、 ボブ・ゲルドフ 率いる ブームタウン・ラッツ は「ラット・トラップ(Rat Trap)」と「 哀愁のマンデイ 」で 全英シングルチャート 1位を獲得し、アイルランドのバンドとして初めて同チャートの首位に立つ快挙を成し遂げたものの、その後は勢いを維持できなかった。このように、当時はアイルランドのバンドにとって、世界的な成功を収めるのは容易なことではなかった 。
のちにU2を結成することになる4人はこの学校で出会い、バンドの歩みをスタートさせた。メンバー間には年齢差があり、1960年生まれのアダムとボノに対し、ジ・エッジとラリーは1つ年下(1961年生まれ)の学年であった。また、ポール・ヒューソン(後のボノ)は、のちに妻となる アリソン・スチュワート ( 英語版 ) (アリ)ともここで出会っている。彼にとって彼女の存在は「未来そのもの」に見えるほどの一目惚れであったという 。