1980年 5月23日 、 ジョイ・ディヴィジョン を手掛けたことで有名だった マーティン・ハネット のプロデュースで、アイランドとの契約後初のシングルとなる「 11オクロック・ティック・タック 」をリリースしたが、チャート入りはしなかった 。
こうした圧倒的な商業的成功と批評的評価によって、U2は世界的なロック・バンドとしての地位を確立し、1980年代後半を代表する存在へと躍進した 。
1980年 8月、 レット・デイヴィス のプロデュースでセカンド・アルバム『禁断の惑星』を発表。
本作に対するメディアからの強いバッシングは、バンドにとって大きな転機となった。彼らは1980年代に定着した「生真面目なロックバンド」というパブリック・イメージを見直し、次なる1990年代に向けて、音楽性および表現手法(アイロニーやユーモアを取り入れたアプローチ)の大幅な軌道修正を図ることになった 。
1980年代後半に受けた激しいバッシングを経て、バンドは1990年代に向けた根本的な方針転換を図ることになった。彼らはかつての生真面目なパブリック・イメージを自ら解体し、新たにヨーロッパのインダストリアル・ミュージックやエレクトロニック・ダンス・ミュージックの要素を大々的に取り入れることを決断する。プロデューサーには再びブライアン・イーノとダニエル・ラノワを起用するとともに、 デペッシュ・モード や ナイン・インチ・ネイルズ などを手掛けた気鋭のエンジニア兼プロデューサー、 フラッド を新たに招き入れた 。 1990年末、東西統一直後のドイツ・ ベルリン にある ハンザ・スタジオ (かつてデヴィッド・ボウイが ベルリン三部作 を録音した伝説的スタジオ)でレコーディングが始まった。しかし、制作初期にメンバー間で音楽的方向性をめぐる意見の対立が生じた。ボノとエッジが新たな音楽的実験を推し進めようとしたのに対し、ラリーとアダムは、従来のU2らしいロック・サウンドを重視していたためである。一時はバンドの解散さえ危惧される状況となったが、エッジが演奏した二つのコード進行をきっかけに、メンバー4人による即興的なセッションから「 ワン 」が生まれた。この曲の制作を通じてメンバーは再び音楽的な結びつきを取り戻し、バンドは制作を継続することになった 。
こうした音楽性とステージ演出の転換によって、U2は1980年代に形成された生真面目で社会的・宗教的なイメージから大きく変化し、1990年代の音楽シーンにおいて新たな存在感を示すこととなった 。
同年9月には、ラスベガスに開業した巨大な球体型会場「Sphere」で、 U2:UV アクトン・ベイビー・ライブ・アット・スフィア を開始した。『アクトン・ベイビー』を軸にしたこの公演は、会場全体を巨大な映像空間として利用する圧倒的な没入型ライブとなり、U2は1980年代から追求してきたロックと映像・テクノロジーの融合を、さらに極端なレベルへと押し進めた。当初の予定を大幅に延長し、最終的には2024年3月2日まで40公演を開催。最終公演では、長年U2のドラマーを務めるラリ-7も会場に姿を見せ、U2は「 40 」の演奏で40公演の歴史的なランを締めくくった。
リムリックでの優勝を果たした後、バンドはアイルランドの有力音楽誌『ホットプレス(Hot Press)』のライターだった ビル・グラハム ( 英語版 ) と知り合う。グラハムは早くからU2の可能性に目をつけ、当時バンドのマネージャー役を務めていたアダムから頼まれて、彼らのリハーサルを見に行った。グラハムはそこでU2の可能性を感じ、大学時代からの友人だった ポール・マクギネス ( 英語版 ) を紹介する。マクギネスは当初、彼らの才能には懐疑的だったが、 1978年 5月18日 、ダブリンのProject Arts Centreでライブを見たことで、4人の熱意、誠実さ、野心に惹かれ、マネージャーを引き受けることになった 。
1978年3月18日、U2はLimerick Civic Week Pop ’78に出場。「Street Missions」「Life On A Distant Planet」「The TV Show」の3曲を演奏し、36組のバンドとの争いを勝ち抜いて、見事優勝した。賞金は500ポンド、他にトロフィーとCBSアイルランドでデモセッションをする権利を得た。そしてこれを機に、エッジの兄・ディックは学業に専念するために、正式にバンドを脱退した 。
1978年 2月、 アイルランド国営放送 (RTÉ)のプロデューサーの前で、自分たちの曲だと偽って ラモーンズ の「Glad to See You Go」を演奏したザ・ハイプは、好意的な評価を得て初めてのテレビ出演を果たし、オリジナル曲の「The Fool」を演奏した 。