United Kingdom

1977
リッチ・キッズ 1977年、 セックス・ピストルズ に在籍していたグレン・マトロックは、 ジョニー・ロットン との確執や、マネージャーである

1977年、 セックス・ピストルズ に在籍していたグレン・マトロックは、 ジョニー・ロットン との確執や、マネージャーである マルコム・マクラーレン の意図するバンドスタイルにそぐわないと放り出される形で脱退し 、次のバンドとして、ギタリスト”ジミー・ノートン”と共に構想していたリッチ・キッズを結成した 。当初は、グレン・マトロック、後に ヴィサージ に参加する ラスティ・イーガン (ドラムス)、 セックス・ピストルズ に短期間在籍し、後に パブリック・イメージ・リミテッド に参加するスティーヴ・ニュー(ギター)、により結成され、ライヴサポートとして ザ・クラッシュ の ミック・ジョーンズ も参加した。”ジミー・ノートン”とはマトロックの想像する、ボーカル、ギター、ソングライティングができるという架空の人物であり 、その後、その人物にあたる人選は難航するも、最終的に元スリックの ミッジ・ユーロ が加入し、 EMI と契約する。

ワイヤー (バンド) ピンク・フロイド がかつて所属した、EMI傘下の ハーヴェスト・レコード と契約し、マイク・ソーンのプロデュースで 1977年 から

ピンク・フロイド がかつて所属した、EMI傘下の ハーヴェスト・レコード と契約し、マイク・ソーンのプロデュースで 1977年 から 1979年 にかけて、『 ピンク・フラッグ 』『 チェアーズ・ミッシング (旧邦題:消えた椅子)』『 154 』の3枚のアルバムをリリースした 。『ピンク・フラッグ』は1分未満の楽曲も多い、荒削りなパンク・ロック・アルバムだったが、『チェアーズ・ミッシング』『154』では シンセサイザー やギター エフェクト を多用した、より複雑でアトモスフェリックなサウンドになった。パンク・バンドとしては異色で、「初期のピンク・フロイドを思わせる」と評された。初期の彼らのキャッチフレーズは「ロックでなければなんでもいい」というもので、ロンドン・パンクにおける名台詞のひとつとされている。彼らのアルバムは大手レーベルからリリースされたこともあって、海を超えてアメリカの オルタナティヴ・ロック に大きな影響を与えた。

1976
ポリス (バンド) スティング のステージ

1976年 末、 イギリス の ニューカッスル で、当時 プログレッシブ・ロック ・バンドの カーヴド・エア に在籍していた ドラマー の スチュワート・コープランド が、偶然 ジャズ ・ フュージョン ・ バンド 、 ラスト・イグジット で活動していた ベーシスト 兼 ボーカリスト の スティング のステージを見て、度重なる説得の末、

ワイヤー (バンド) 1976年 、 コリン・ニューマン

1976年 、 コリン・ニューマン とブルース・ギルバートが、ワイヤーの前身バンド、Overloadを結成した。そこにグレアム・ルイスとロバート・グレイ(デビュー時のステージネームはロバート・ゴートゥベッド(Robert Gotobed)だったが後に本名名義に変更)が加わり、ワイヤーの原型ができあがった。 1977年 から4人編成での本格的な活動が始まった 。

1975
レインボー (バンド) RAINBOW #2

RAINBOW #2(1975年9月 – 1977年 2月)

レインボー (バンド) RAINBOW #1

RAINBOW #1( 1975年 5月 – 1975年9月)

キース・ムーン 1975年3月、唯一のソロ・アルバム『 トゥー・サイズ・オブ・ザ・ムーン 』を発表。 リンゴ・スター や ジョー・ウォルシュ

1975年3月、唯一のソロ・アルバム『 トゥー・サイズ・オブ・ザ・ムーン 』を発表。 リンゴ・スター や ジョー・ウォルシュ など豪華ゲストを迎え、自ら ボーカル をとった。200,000ドルもの制作費が費やされたものの 、アルバムはチャートインを果たせず、制作費を回収するには至らなかった 。しかし彼は懲りずに、同年9月、周囲の反対を押し切って2枚目のソロアルバムのためのレコーディングセッションを行う 。アルバムは結局完成せず、この時に録音された楽曲は、のちに『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』のCDにボーナストラックとして収録された 。

プライマル・スクリーム ボビー・ギレスピー とロバート・ヤングは、共に グラスゴー のキングスパーク・セカンダリースクールに通っていた

ボビー・ギレスピー とロバート・ヤングは、共に グラスゴー のキングスパーク・セカンダリースクールに通っていた 。ギレスピーの父は熱心な労働党支持者で、労働組合の幹部を務めていた。ギレスピーには2つ年上の アラン・マッギー という友人がいた。当初ギレスピーとマッギーは大親友という程ではなかったが、ギレスピーが誘った シン・リジー のショーをきっかけに連れ立ってコンサートへ足を運ぶようになっていった 。彼らは当時流行していた パンク・ロック を通じて親交を深め、マッギーが1975年に学校を退学する頃には互いの一番の親友となっていた 。パンクに出会った彼らは反抗期を迎え、音楽のこと以外には興味を示さなくなった。当時の彼らはいつも喧嘩腰で、信じられないほどの癇癪持ちだったという 。

キース・ムーン アルバム『 ザ・フー・バイ・ナンバーズ

アルバム『 ザ・フー・バイ・ナンバーズ 』の発表に伴って、ザ・フーが1975年の年10月初めから翌1976年10月末までヨーロッパと北米でおこなったツアーは大きな成功に終わり、彼らは ローリング・ストーン 誌の1976年最優秀グループに選ばれた。しかしムーンはツアーの合間の 1976年 1月、ロンドンでアルコールの禁断症状を起こし一時意識不明に陥る 。また同年3月9日、二巡目のアメリカ・ツアーの初日のボストン公演では、開始間もなく倒れてコンサートを中止させてしまった 。同年8月には マイアミ で致死量に至るほどの飲酒をし、8日間の入院を余儀なくされている。その際に医師から「飲酒を控えなければ3か月以内に死ぬだろう」と警告された 。10月21日のトロント公演で終わったこのツアーが、ムーンの生涯で最後のものになった。10月23日にはイギリスの報道機関が、彼が12月15日にロサンゼルスでウォルター=ラックスと再婚する予定であると報じたが 、彼の生活が改まることはなく、健康状態は悪化の一途をたどり、ザ・フーはライブ活動から遠ざかっていった 。

1974
キース・ムーン 1974年 4月、イギリスを離れ、ガールフレンドでスウェーデン人モデルのアネット・ウォルター=ラックス(Annette

1974年 4月、イギリスを離れ、ガールフレンドでスウェーデン人モデルのアネット・ウォルター=ラックス(Annette Walter-Lax)と共に ロサンゼルス 郊外の マリブ に移住 。 ジョン・レノン や ハリー・ニルソン と毎晩のように飲み歩く。レノンのプロデュースによって同年に発表されたニルソンのアルバム『 プシー・キャッツ 』にドラマーとして参加 。彼はザ・フーのメンバーの中で唯一ソロ作品を発表していなかったが、二人に影響されてソロ・アルバムを製作し始めた 。また4月に始まった映画『 トミー 』(1975年公開)の撮影で叔父アーニーを演じた 。