1978年 、ライドンは セックス・ピストルズ を脱退して レゲエ の本場 ジャマイカ で3週間の休暇を過ごした後 、レゲエ好きの友人 ジャー・ウォブル と ザ・クラッシュ の元ギタリストの キース・レヴィン に声を掛けてPILを結成した。ドラマーの ジム・ウォーカー はオーディションによって雇われた 。
1978年12月、ファースト・アルバム『パブリック・イメージ』を ヴァージン・レコード から発表。
RAINBOW #4(1977年7月 – 1978年 11月)
RAINBOW #3(1977年5月 – 1977年7月)
ピンク・フロイド がかつて所属した、EMI傘下の ハーヴェスト・レコード と契約し、マイク・ソーンのプロデュースで 1977年 から 1979年 にかけて、『 ピンク・フラッグ 』『 チェアーズ・ミッシング (旧邦題:消えた椅子)』『 154 』の3枚のアルバムをリリースした 。『ピンク・フラッグ』は1分未満の楽曲も多い、荒削りなパンク・ロック・アルバムだったが、『チェアーズ・ミッシング』『154』では シンセサイザー やギター エフェクト を多用した、より複雑でアトモスフェリックなサウンドになった。パンク・バンドとしては異色で、「初期のピンク・フロイドを思わせる」と評された。初期の彼らのキャッチフレーズは「ロックでなければなんでもいい」というもので、ロンドン・パンクにおける名台詞のひとつとされている。彼らのアルバムは大手レーベルからリリースされたこともあって、海を超えてアメリカの オルタナティヴ・ロック に大きな影響を与えた。
1977年、パーシー(ボーカル)、デイヴ・パーソンズ(ギター)、アルビー・マスケル(ベース)、マーク・ケイン(ドラム)の陣容で、ファースト・シングル「I Don’t Wanna」をインディー・レーベルのステップ・フォワードより発表。プロデュースは ヴェルヴェット・アンダーグラウンド の ジョン・ケイル 。マスケルがデイヴ・トレガンナに交代し、翌1978年1月、シングル「Borstal Breakout」でイギリスの ポリドール・レコード よりメジャー・デビューを果たす。
しかしバンド名を ブラックモアズ・レインボー としたセカンド・アルバムでは、ディオのヴォーカルに加えてパウエルのパワフルなドラミングを得て、彼の当初の理想だった「中世様式美系ハードロック」がある程度完成したとされ、その結果 レインボー は、彼のワンマンバンドではなく3人の強力なメンバーを擁したバンドと見なされるようになった。この『三頭時代』に創作された2作のスタジオ・アルバム、1作のライヴ・アルバム、後年リリースしたビデオ『Live in Munich 1977』は、いずれも高品質の作品として評価され、 日本 や ヨーロッパ では高い人気を博した。
1977年 ギタリストの ヘンリー(アンリ)・パドゥバーニ ( 英語版 ) を加えた3人でポリスを結成 。後に、 ストロンチウム90 を通じて、元後期 アニマルズ のギタリスト、 アンディ・サマーズ が加入し4人編成となるが、パドゥバーニが脱退しトリオとなる。
1977年 、学生だったフレッチとヴィンスが結成した “No Romance In China” が彼らのバンド活動の始まりである。結成当初フレッチはベース、ヴィンスはヴォーカルとギターを担当していたが、友人の ロバート・マーロウ がボーカルとして加入した。そのころマーティンはアコースティック・デュオでギターを弾いていた。
1977年 9月、ザ・フーは新作アルバムの為のリハーサルを開始し、翌 1978年 5月までレコーディングを行なった。この頃になると彼はもはや6/8拍子を叩くことができなくなっていたという 。彼がミスを連発するのに堪えかねて、タウンゼントが「真面目にやらないなら辞めろ」と怒ると、彼は「 俺は世界一のキース・ムーン・スタイルのドラマーだ! 」と怒り返してきたという 。5月25日には シェパートン・スタジオ ( 英語版 ) に500人ほどの聴衆を特別に招待して、ザ・フーの ドキュメンタリー 映画『 キッズ・アー・オールライト 』の為のライブが行われた。彼の体調は優れなかったが演奏は上手くいき、聴衆も非常に熱狂して撮影は成功した 。このライブが彼の最後のステージとなった 。8月、3年ぶりの新作『 フー・アー・ユー 』発表。このアルバムが彼の在籍中にザ・フーが発表した最後のオリジナル・アルバムになった。