United Kingdom

1979
デペッシュ・モード “The French Look” を結成

1979年 、ヴィンスとマーティン、ロバートは友人のポール・レッドモンド(Paul Redmond)を招いて “The French Look” を結成。ボーカルはロバート、マーティンがギター、ヴィンスとポールがシンセサイザーを担当し、後のデペッシュ・モードを思わせる編成となった。

ポリス (バンド) 孤独のメッセージ

1979年には、アルバム『 白いレガッタ 』の収録曲「 孤独のメッセージ 」(Message In A Bottle)がヒットした 。

キース・ムーン ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、かつ

ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、かつてないほど活動続行へ燃えている。キースがバンドに注いでくれた精神を持ち続けていこうと思ってる。例え彼の代わりになる人間などいないとわかっていても」という声明文を発表して 、ザ・フーの活動継続を宣言した。翌 1979年 、彼等は元 フェイセズ の ケニー・ジョーンズ を加入させ本格的に活動を再開するが、やはりムーンを失った影響の大きさには耐えられず、 1982年 9月から12月までフェアウェル・ツアーを行なって解散した。

1978
パブリック・イメージ・リミテッド 1978年12月、ファースト・アルバム『パブリック・イメージ』を ヴァージン・レコード から発表。

1978年12月、ファースト・アルバム『パブリック・イメージ』を ヴァージン・レコード から発表。

リッチ・キッズ 1978年 1月 にシングル「Rich Kids」でデビューを果たし、全英24位を記録 。その後、「Marching Men」(B面は

1978年 1月 にシングル「Rich Kids」でデビューを果たし、全英24位を記録 。その後、「Marching Men」(B面は スモール・フェイセス のヒット曲「ヒア・カムズ・ザ・ナイス」 )、「Ghosts Of Princes In Towers」と2枚のシングルをリリースし、 8月 に唯一のアルバム『王子の幻影(Ghosts Of Princes In Towers)』(全英51位 )をリリースした。プロデュースは ミック・ロンソン が担当し、レコーディングにも参加した。 スモール・フェイセス などに在籍した イアン・マクレガン も ピアノ でゲスト参加し、一時期のツアーにもサポートメンバーとして同行した 。しかし、セカンドアルバムの デモテープ を制作する段階で、マトロック、ニューとユーロ、イーガンの音楽的方向性の相違からメンバー間の緊張状態が高まり、1978年12月、バンドは活動停止となり、 1979年 6月に正式に解散を表明した。その後、マトロックらはスペクターズを結成したのち、 イギー・ポップ やロンドン・カウボーイズなどに参加した 。ユーロとイーガンは、 スティーヴ・ストレンジ に接近しヴィサージに参加。ユーロは平行して ウルトラヴォックス のメンバーとなった。

クラス (バンド) 1978年、クラスは初EP「The Feeding of the

1978年、クラスは初EP「The Feeding of the 5000」をリリースした(スモール・ワンダー・レコード)。レコード制作工場の工員は「Asylum」の詞の キリストに対する冒涜的な内容 から作業を拒否した 。結局レコードはその曲抜き(代わりに2分間の沈黙)でのリリースとなった。この事件をきっかけにクラスは、スモール・ワンダーから不利な立場に立たされるのを防ぎ、彼らの作品の編集権を保持するために、独立したレコードレーベル「クラス・レコード」を設立することとなった 。

シャム69 サッカーの応援歌にも似た、観客が一緒に歌いやすい曲調は「シンガロング・スタイル」と呼ばれ(後の Oi!パンク

サッカーの応援歌にも似た、観客が一緒に歌いやすい曲調は「シンガロング・スタイル」と呼ばれ(後の Oi!パンク の源流とされる)、レコードセールスの上では好成績を残し続けたが、ライブは パンクス や スキンヘッド たちの喧嘩の場と化し、活動に支障をきたすようになる。1978年の レディング・フェスティバル では、「If the Kids Are United」を歌ってキッズたちの連帯を訴えても一向に喧嘩が収まらない状況にパーシーが絶望し、ステージ上で涙を流したと伝えられる(パーシーは一貫してこれを否定)。

パルプ (バンド) 1978年 に15歳のジャービス・コッカーが結成した「アラバカス・パルプ」を前身として、 1983年

1978年 に15歳のジャービス・コッカーが結成した「アラバカス・パルプ」を前身として、 1983年 にインディーズのレッド・ライノ・レコードから1stアルバム『It』でデビューする。4年後の 1987年 にはファイア・レコードから 2ndアルバム『フリークス』をリリースするも大した話題にはならなかった。同年、ジャーヴィス自身の大学進学のため ロンドン へ拠点を移すことになり、学業と平行しながらのバンド活動となる。当時はメンバーの入れ替わりが多く、1stアルバム作成時のメンバーで残っているのはジャービスだけである。2ndアルバムからギターのラッセルとキーボードのキャンディダが加入している。

プライマル・スクリーム アンドリュー・イネス は、ザ・ドレインズというバンドでギターを弾いていた。このバンドのベース募集にマッギーが応募したことで彼らは出会った

アンドリュー・イネス は、ザ・ドレインズというバンドでギターを弾いていた。このバンドのベース募集にマッギーが応募したことで彼らは出会った 。マッギーはこの募集への唯一の応募者ということもあり、ベースプレイヤーとしてドレインズのメンバーに加わることになった。ギレスピーはマッギーを通じてイネスと知り合った。2、3ヵ月が経ち、イネスとマッギーはドレインズの他のメンバーを追い出し、ギレスピーを加えてキャプテン・スカーレット・アンド・ザ・ミステロンズというバンドのようなものを始めた 。当時の彼らは ザ・クラッシュ や ザ・ジャム に夢中で、パンクの有名曲を弾くことが出来たイネスをギレスピーは尊敬していた 。このバンドごっこの後、イネスとマッギーは1978年から1979年にかけていくつかのバンドに所属した。このバンドの中には、後に RCAレコード から幾つかのヒットシングルを出す H2O も含まれている 。

ポリス (バンド) アウトランドス・ダムール

1978年にはアルバム『 アウトランドス・ダムール 』でデビュー。同年、シングル「 ロクサーヌ 」がヒットし、ポリスは順調なスタートを切った。