1980年 に結成。 1985年 に初音源となるEP『Forty Five』を発表し、 1987年 、 ジョン・ケイル のプロデュースによるファースト・アルバム『スクワーレル&G-MAN』発表。 ザ・ストーン・ローゼズ や ニュー・オーダー といったバンドとともに マッドチェスター ・ムーブメントの中心バンドとして活躍し、 1990年 のアルバム『ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス』は 全英アルバムチャート 4位のヒット作となった。
「高校教師」(Don’t Stand So Close to Me:1980年)「ドゥ・ドゥ・ドゥ・デ・ダ・ダ・ダ」
1980年 に解散し 、コリン・ニューマンはソロ活動を開始。シングルやアルバムを精力的にリリースする。ルイスとギルバートは ドーム を結成し アンビエント・ミュージック 、 インダストリアル・ミュージック にのめり込んだ。
1980年代のつぎのシングル曲「Bloody Revolutions」はポイズン・ガールズ の慈善リリースで、「 Wapping Autonomy Center 」の資金として2万ポンドを調達した。歌詞は、革命闘争の伝統的な マルクス主義 観に対する アナーキスト – 平和主義 の視点からの批判であり、1979年9月にふたつのバンドがパフォーマンスをした、ロンドンのコンウェイ・ホールでの暴力に対する反応であった。このショーは、陰謀告発に直面しているアナキストのグループである「人物不明―Persons Unknown」のための利益として意図された。パフォーマンスの間、社会主義の労働者党支持者やその他の反・ファシストたちは、 ネオ・ナチス を襲い、暴力を引き起こした 。
1980年代の末には アシッド・ハウス が生まれ、コリンと1987年に加入したウィル・シノットは夢中になっていた。そして、1989年にセカンド・アルバム『In Gorbachev We Trust』(ジャケットは ミハイル・ゴルバチョフ の写真)をリリースした。
RAINBOW #5( 1979年 4月 – 1980年 8月)
1979年 、ヴィンスとマーティン、ロバートは友人のポール・レッドモンド(Paul Redmond)を招いて “The French Look” を結成。ボーカルはロバート、マーティンがギター、ヴィンスとポールがシンセサイザーを担当し、後のデペッシュ・モードを思わせる編成となった。
1979年には、アルバム『 白いレガッタ 』の収録曲「 孤独のメッセージ 」(Message In A Bottle)がヒットした 。
ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、かつてないほど活動続行へ燃えている。キースがバンドに注いでくれた精神を持ち続けていこうと思ってる。例え彼の代わりになる人間などいないとわかっていても」という声明文を発表して 、ザ・フーの活動継続を宣言した。翌 1979年 、彼等は元 フェイセズ の ケニー・ジョーンズ を加入させ本格的に活動を再開するが、やはりムーンを失った影響の大きさには耐えられず、 1982年 9月から12月までフェアウェル・ツアーを行なって解散した。
1979年11月、セカンド・アルバム『メタル・ボックス』を発表。ドラマーのウォーカーは制作開始時には既に在籍しておらず、ドラムはデービッド・ハンフリー、リチャード・デュダンスキー、ウォブル、レヴィン、 マーティン・アトキンス によって演奏された。このアルバムはヒットチャートの上位にランクインし、音楽的なユニークさからも彼等の代表作とされている。発表直後、ウォブルが意見の相違のためバンドを脱退。彼の最初のソロ・アルバムは、『メタル・ボックス』の音源を無断流用したものだった。またアトキンスも一旦解雇となる。