1977年 9月、ザ・フーは新作アルバムの為のリハーサルを開始し、翌 1978年 5月までレコーディングを行なった。この頃になると彼はもはや6/8拍子を叩くことができなくなっていたという 。彼がミスを連発するのに堪えかねて、タウンゼントが「真面目にやらないなら辞めろ」と怒ると、彼は「 俺は世界一のキース・ムーン・スタイルのドラマーだ! 」と怒り返してきたという 。5月25日には シェパートン・スタジオ ( 英語版 ) に500人ほどの聴衆を特別に招待して、ザ・フーの ドキュメンタリー 映画『 キッズ・アー・オールライト 』の為のライブが行われた。彼の体調は優れなかったが演奏は上手くいき、聴衆も非常に熱狂して撮影は成功した 。このライブが彼の最後のステージとなった 。8月、3年ぶりの新作『 フー・アー・ユー 』発表。このアルバムが彼の在籍中にザ・フーが発表した最後のオリジナル・アルバムになった。
現在閲覧可能な複数の記述によれば、パリのクラブ、 ゴルフ・ドゥルオ ( フランス語版 ) で1977年 9月9日 、 10日 に ギャング の前座を務めたことによる演奏が最初のトラストの正式な活動であるとされる 。 ベルニーとマナは、 オランピア劇場 で舞台 大道具 職員として共に勤務しており、彼らのリハーサルも同劇場で行っていた。マルク・バリエール(後の ローズボンボン ( フランス語版 ) のジェネラルマネージャー)とジャッキー “ブフィ” プールプルは、1977年12月4日に ビジュ のデビューライブをオランピアで企画し、当時無名であったトラストを多くの観客に披露すべく、前座としての起用を検討していた。
結成前の各メンバーは、アイスランドの様々なバンドで活動していた。ビョークは 1977年 にデビュー・アルバム『Björk Guðmundsdóttir』をリリースした後、10代後半は パンク ・バンド「 タッピ・ティカラス 」に参加し、 1983年 に解散するまでに2枚のアルバムをリリースした 。シギは セイル のメンバーであり、アイナール・オルンとブラギは「 Purrkur Pillnikk 」というパンク・バンドを結成し活動していた。
「 イレテテュヌフォワ ( フランス語版 ) “Il était une fois”」のリーダーで作詞家の セルジュ・クーレン ( フランス語版 ) は、当時の パテ・マルコニ ( フランス語版 ) のアーティスティック・ディレクターであったローラン=ティエリ・ミエグにグループを強く推薦し、1977年10月に同レーベルと契約した。この時点ではベルナール・ボンヴォワザン、レイモン・マナ、マルク・バリエール(マネージャーとして)の名義で契約。
1977年 にスティング(ベース、ボーカル)、 ヘンリー・パドゥヴァーニ (ギター)と ポリス を結成 。
しかしバンド名を ブラックモアズ・レインボー としたセカンド・アルバムでは、ディオのヴォーカルに加えてパウエルのパワフルなドラミングを得て、彼の当初の理想だった「中世様式美系ハードロック」がある程度完成したとされ、その結果 レインボー は、彼のワンマンバンドではなく3人の強力なメンバーを擁したバンドと見なされるようになった。この『三頭時代』に創作された2作のスタジオ・アルバム、1作のライヴ・アルバム、後年リリースしたビデオ『Live in Munich 1977』は、いずれも高品質の作品として評価され、 日本 や ヨーロッパ では高い人気を博した。
1977年 、セカンド・アルバム『クイーンズ・オブ・ノイズ』(Queens of Noise)をリリースし、ワールド・ツアーを敢行する。折しも勃興した パンク ・ムーブメントにも後押しされグループの勢いが加速する。同年夏に初来日。彼女たちは当時の日本におけるレコード売上げで アバ 、 キッス 、 レッド・ツェッペリン と肩を並べるセールスを誇る人気グループであり 、空港には大勢のファンが押しかけ、現場は大混乱に陥った。この時の喧騒をジェットは後に「まるで『ビートルズ旋風 』」と回顧している。日本では特集番組をはじめ数多くのテレビ番組に出演。東京公演を収録した『 ライヴ・イン・ジャパン 』はゴールドディスクに認定された。しかし滞在中にフォックスが脱退を表明。後任に ヴィッキー・ブルー ( 英語版 ) を迎えたが、続いてグループの看板であるカーリーまでもが脱退し 、それまでもカーリーとボーカルを分け合っていたジェットがフルタイムのシンガーとなる。
人気の拡大とともにバンド活動には2度目のヨーロッパツアーを含む大規模なツアーが組み込まれ、その合間に次作のレコーディングが行われるという過酷なスケジュールになり、以前から使用していたとされるドラッグも使用頻度が増していった( 薬物乱用 )。そのような中、1977年12月に5thアルバム『 ドロー・ザ・ライン 』を発表。全米チャート11位(Billboard 200)のヒットとなる。1978年3月には ロック・フェスティバル 「 カリフォルニア・ジャム2 」で ヘッドライナー を務め、同年7月から公開された ビートルズ のアルバム『 サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 』を取り上げた同名タイトルの映画にも出演。 ジョージ・マーティン をプロデューサーに迎え、「 カム・トゥゲザー 」をカバーするなど精力的な活動が続いていた。しかし、バンド内ではスティーヴンとジョーの関係悪化が進み、ステージ上で小突き合いまでしていた 。さらに、バンド内に蔓延しているドラッグ癖が次作のアルバム制作にまで影響を及ぼす状況になっていた。そして、1979年7月のロック・フェスティバル『ワールド・シリーズ・オブ・ロック』出演後に些細な出来事からバンド内で大喧嘩が起こり、ジョーがバンドを脱退する事態にまで発展した。
1976年12月、既に解散することが決まっていたカーヴド・エアのラスト・ツアーの最中、 1974年 から ジャズ ・ フュージョン ・バンド、 ラスト・イグジット を結成して活動していた スティング のステージを偶然見て一目惚れ、度重なる説得をして、
そしてこの年の秋(1976年10月頃)、学校のカフェテリアで開催されたタレント・コンテストに出場し、フィードバックとして初めて観客の前に立ってギグを行った。この時は、マウント・テンプル校の生徒ではなかった年長のディックを外した4人での演奏であった 。