『ランブルフィッシュ』の制作スタッフの一人であった マイケル・スムーイン が サンフランシスコ・バレエ の監督になり、コープランドにバレエの作曲を依頼した。彼は依頼に応えて『リア王』を作曲し、サンフランシスコ・バレエはこの作品を1984年に初演した 。彼はこの活動をきっかけに、 クリーブランド・オペラ の総監督であったデビッド・バムバーガーにオペラの作曲をもちかけられて 、4年間を費やして Holy Blood and the Crescent Moon を作曲した 。
1984年2月、エアロスミスのボストン公演をジョーとブラッドが訪れる。後日・話し合いの場が持たれてオリジナルメンバーでの再活動が決まり、諸条件(ドラッグ、アルコールからの脱却とマネジメントの刷新)を整えてツアーを開始。 レコードレーベル は ゲフィン・レコード に移籍する。
同年、 レイキャヴィーク の音楽ラジオ番組で共演したことをきっかけに、ビョーク、アイナール・オルン、シギというメンバーで「 K.U.K.L. (クークル)」を結成した。キーボーディストのアイナール・アルナルドゥルも加入し、英国の独立系レコードレーベル、 クラス・レコード から『 ジ・アイ 』(1984年)、『 Holidays in Europe 』(1985年)と2枚のアルバムをリリースし、 ヨーロッパ ・ツアーも行っている。
1984年5月、U2はアイルランド・ミース県の スレーン城 ( 英語版 ) でレコーディングを開始し、同年 10月1日 に4作目のアルバム『 焰 』を発表した。本作では、それまでの作品で聴かれたロックやポストパンクを基調としたサウンドから音楽性を広げ、シンセサイザーやエフェクト、アンビエント的な音響などが取り入れられ、U2の音楽的転換を示す作品となった。また、本作からは「 プライド 」が全英シングルチャート3位のヒットとなり、「 バッド 」が代表曲の一つとなった 。
1984年1月に活動停止を宣言した。
1984年 末、ボブ・ゲルドフが提唱したエチオピア飢餓救済プロジェクト、 バンド・エイド のチャリティ・シングル「 ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス ( 英語版 ) 」にボノが参加したことを皮切りに、バンドは様々な社会的活動に深く関わるようになった 。その決定打となったのが、翌 1985年 7月に開催された歴史的チャリティ・コンサート、 ライブ・エイド への出演である 。
1984年、マークとスティーヴは、ドラマーとして一時期スティーヴと共に「スプルイ・ヌーマ」というバンドに在籍していたアレックス・ヴィンセントを雇い、新たなバンド「グリーン・リヴァー」を結成する。そして後に パール・ジャム を結成する ジェフ・アメン (Ba)と ストーン・ゴッサード (G)が加入する。
1984年、バンドはマッギー率いるクリエイション・レコーズと契約し、ビーティが作り出す12弦ギターの音色が特徴的な「オール・フォール・ダウン」、「クリスタル・クレッセント」というシングル2枚を発売した 。シングルのレビューには、しばし ザ・バーズ 、 スモール・フェイセズ などが引き合いに出され、2枚目のシングル「クリスタル・クレッセント」のB面に収録された「ヴェロシティ・ガール」は、『 ニュー・ミュージカル・エクスプレス 』(NME)誌が付録につけた『 C86 』というカセットテープの1曲目に収録され、ささやかな注目を浴びた 。 ザ・ストーン・ローゼズ の ジョン・スクワイア は、後にこの頃のプライマル・スクリームのスタイルが彼らのファーストアルバムの青写真になったことを話している 。ローゼズのヒット曲「メイド・オブ・ストーン」が「ヴェロシティ・ガール」と酷似していることも周知の事実だ 。1986年にはボーカルにギレスピー、ギターにビーティとイネス、ベースにヤングというラインナップが揃った。
この時期のもう一つの大きな音楽的変化は、バンドがルーツ・ロックへと目覚めていったことである。U2はパンクやポスト・パンクのムーブメントから直接誕生したバンドであり、 ブルース や カントリー といったロックンロールの伝統的なルーツを通ってきていなかった。しかし、1984年のスレイン城でのライブでボブ・ディランと共演した際、彼から直接「君たちはもっと音楽のルーツを学ぶべきだ」と指摘されたことや、その後のサン・シティのプロジェクト等で キース・リチャーズ (ローリング・ストーンズ)と交流し、彼から古いブルースの魅力を教えられたことが、ボノにとって自らの音楽的教養を見直す大きな転機となった 。
1984年 にセカンド・アルバム『ゼン・アーケード』を発表。 コンセプト・アルバム であり、 LP 2枚組で70分の大作だったが、レコーディングにかけた時間はわずか45時間であり、制作費用もたった3,200ドルだった 。アルバムは発売当初から賞賛され、パンク・ファン以外からも注目を浴びる結果となった 。SSTは作品の内容からか当初3,500枚~5,000枚程度しかレコードをプレスしなかったが、発売から数週間でレコードは売り切れ数ヶ月間在庫切れとなり、それがセールスに影響しバンドはSSTに不満を抱くようになる。 1985年 1月にサード・アルバム『ニュー・デイ・ライジング』、8ヵ月後の9月に4枚目のアルバム『フリップ・ユア・ウィグ』をリリース。