1986年 にジョン・オウア(Jon Auer)とケン・ストリングフェロウ(Ken Stringfellow)を中心に結成された。 1988年 にアルバム『Failure』でデビューし、 1993年 にサードアルバム『Frosting On The Beater』のリリースにより評価を高める。
マーは後にNMEとのインタビューで、「当時のことは『不調』という言葉では半分も言い表せない。僕はものすごく病気だった。ツアーが完全に終わるまでにはちょっと…危険な状態だった。僕は自分を抑えられる以上の量の酒を飲んでいた」と語っている 。そのころ1986年初頭にはルークも ヘロイン による問題でバンドを首になっていた。彼は車のフロントガラスに張られた ポスト・イット で解雇通知を受け取った。文面は「アンディ ― 君はザ・スミスを去った。さようなら幸運を祈る。モリッシー 」というものだった。 しかし、2009年9月にモリッシーは自身のファン・サイトTruetoyou.net上で「そんなポストカードを俺はこれまで書いたことがないし、解雇を知らせるポストカードをアンディの車に置いた覚えもない」と発言してこれを否定している 。
1986年、 Run-D.M.C. が「ウォーク・ディス・ウェイ」をカバー。スティーヴンとジョーがレコーディングに参加し ミュージック・ビデオ にも出演した。このシングルは全米チャート4位(Billboard Hot 100)のヒットとなり 、エアロスミスが音楽シーンにカム・バックしていくきっかけになった。
1986年 、ビョークとソーは結婚し 6月8日 14時50分に長男シンドリ・エルドンが誕生した 。同日、再スタートとしてビョーク、ソー、ブラギでシュガーキューブスを結成し、翌年には活動拠点としてレーベル「 バッド・テイスト・リミテッド 」を起ち上げる 。K.U.K.L.のメンバーだったアイナール・オルン、アイナール・アルナルドゥルも加わった。K.U.K.L.では アイスランド語 で歌っていたが、シュガーキューブスでは全編英語歌詞とアイナーの語りを前面に押し出し、 民族音楽 の要素を廃したスタイルになった。なおシュガーキューブスというバンド名は、ファンの間で LSD の使用法を表すものだとする説もあった 。
ルークの代役として、ベースに短期間クレイグ・ギャノン(Craig Gannon)が入ったが、ルークはわずか2週間で復帰を認められた。ギャノンはザ・スミスにとどまり、リズム・ギターに転向した。ギャノンを加え5人で収録したシングル「 パニック 」と、さらに カースティー・マッコール がバッキングボーカルに入ったシングル「アスク」は1986年夏から秋にかけてリリースされ成功を収め、5人体制になったバンドはイギリスツアーも行った。ギャノンはツアー終了後の1986年10月にバンドを去っている。
1986年に、新たなアルバムを製作するため、再び3人は集まった。ところが、製作は順調に進まず、3年振りの新作シングル「高校教師’86」を発表するに留まり(コープランドが落馬で足を骨折。このため、「高校教師’86」のドラムはすべて打ち込みとなっている)、これを境に再び活動を停止。3人はそれぞれソロ・キャリアを歩むことになる。
ネブラスカ州 出身。大学進学を機に ジョージア州 に移り、Oh-Okというバンドで活動。同バンドには、 マイケル・スタイプ ( R.E.M. )の妹も在籍していた 。その他、Buzz of Delightというバンドでも活動したが、ソロ・アーティストとして コロムビア・レコード と契約し、 1986年 にデビュー・アルバム『Inside』を発表。しかし、商業的成功に恵まれず、コロムビアとの契約を失う。 1989年 に A&Mレコード から発表した『アース』は、 ロバート・クワイン (元 リチャード・ヘル &ヴォイドイズ)や リチャード・ロイド (元 テレヴィジョン )が参加したが、やはり成功には至らなかった。
バンドは『フリップ・ユア・ウィグ』レコーディング中からメジャー・レーベルであるワーナー・ブラザース・レコードから契約のオファーを受け、契約を結んだ。 1986年 3月に5枚目にしてメジャー・デビュー・アルバム『Candy Apple Grey』をリリース。バンドにとって初となる ビルボード にチャートインを果たし、 MTV や ラジオ でも取り上げられるが、最終的に最高140位にとどまった。 1987年 1月に6枚目のアルバム『Warehouse: Songs and Stories』をリリース。『ゼン・アーケード』に続く2枚組の大作だったが、ツアー直前にバンドマネージャーのデヴィッド・サヴォイが自殺。モールドがマネジメントを管理するようになると、この頃からモールドとハートの間の確執が表面化する。ハートは メサドン 服用による ヘロイン 中毒に悩まされており、解散前のツアーにも参加しまだ演奏できると主張していたが、モールドはその後のツアーを全てキャンセルし、その4日後にハートはバンドを脱退し 、バンドも解散した。
同年、ボノは南アフリカの アパルトヘイト に反対するプロジェクト、 サン・シティ にも参加 。さらに 1986年 5月には、アイルランドの深刻な失業問題に対抗するためのチャリティ・イベント、 セルフ・エイド ( 英語版 ) にバンドとして出演し、失意の底にあった母国の若者たちを力強い演奏で鼓舞した 。
また、アメリカの伝統音楽に深く惹かれる一方で、ボノは自分たち自身の母国のルーツにも目を向けた。1986年には、アイルランドの伝統音楽グループである クラナド の楽曲「 イン・ア・ライフタイム 」にゲストボーカルとして参加。この共演を通じて、彼はアイルランド音楽が持つ特有の哀愁や、ケルト的な神秘の響きを深く吸収していった 。