カナダでは順調にトップ・バンドに成長した彼らがアメリカでブレイクを果たしたのは、1998年。アルバム『スタント』(全米3位)と同作からのファースト・シングル「One Week」(全米1位)によってだった。彼らはアメリカでアリーナ級の会場をまわる大規模な『Stunt』ツアーを敢行。その熱狂の様子は、またもジェイソンが監督した1999年のドキュメンタリー映画『Barenaked in America』に記録された。この時期、ケヴィンが白血病のために入院、一時バンドを離れるという不運にも見舞われていたが、奇跡的に快復し、ツアーの途中で復帰している。ちなみに1999年3月にバンドは来日しているが、アメリカでの人気の余波は日本には届いておらず、渋谷ON AIR WEST(現・ Shibuya O-WEST )・心斎橋クラブクアトロと、クラブ規模の会場2か所で公演を行った。
1998年 に発売されたアルバム『 アドア 』は正式なドラマーの不在のもとで制作され、音楽的にもギターを中心としたサウンドから 打ち込み を駆使したサウンドへと変貌を遂げた。しかし、アメリカ国内では前作ほどセールスが伸びず、商業的には失敗作とみなされる結果となった。
以後、数年は ロンドン や マンチェスター でライブ活動を行う。1998年、マネジメント企業に誘われて行った ニューヨーク と ロサンゼルス での小さなギグを経て、 インディレーベル からEPを2作発表するとイギリスのインディーズ音楽プレスに注目され、 ワーナー・ミュージック・グループ 傘下のマヴェリックと契約 。
残った5人によって 1998年 に発表されたアルバム『ディス・イズ・ハードコア』は、全編を通して暗く重いトーンの仕上がりとなった。全英1位を記録こそしたが周囲の期待を裏切る内容となったためか、前作から大きく売り上げを落とし、奇しくも ブラー の デーモン・アルバーン がこの時期発言した「ブリットポップは死んだ」ということを裏付けるかのような結果となってしまった。
結成後急速に人気を獲得し、インディーズでありながらオリコンのシングル・チャート上位に連続で作品を送り込む。1998年発表の『 -I’ll- 』は最高7位を記録し、インディーズ史上最高記録(当時)を樹立。さらに同年11月にはメジャー・デビューを前にインディーズ・バンドとして初の日本武道館公演を実現した。
12月19日にベストアルバム『 DECADE 1998-2002 』『 DECADE 2003-2007 』を完全生産限定で発売。結成から10年を迎えた2007年の公演回数は、バンド史上最多の121公演にのぼった。
同年、最初の曲となる「ゴースト・トレイン」がレコーディングされた。
バトラー、シュースミス、そしてドラムのジェイソン・マッガンと共に、ジョン・バトラー・トリオは1998年にフリーマントルで結成され
同年 10月28日 には『マイ・ボディ・ザ・ハンド・グレネード』( My Body, the Hand Grenade 、B面曲や未発表曲を集めたミニアルバム)がリリースされた。
1997年10月にEP『クローズド・フォー・ビジネス』をリリースした後、バンドは2ndアルバムのスタジオセッションを始める前に曲が不足していることに気付き、前の米国ツアーの音合わせの際にたくさんの音楽的アイデアが議論された。スランプに陥ったポールは マルキ・ド・サド の『 ソドム百二十日あるいは淫蕩学校 』や A・A・ミルン の『 クマのプーさん 』、 L・ロン・ハバード の『 ダイアネティックス 』といった本の要点を調べ、それらの本をベースにした歌詞をまとめた。