キース・ムーン

1985
キース・ムーン タウンゼント、ダルトリー、エントウィッスルは ライブ・エイド (1985年)、 英国レコード産業協会 の特別功労賞の受賞式(1988年)、

タウンゼント、ダルトリー、エントウィッスルは ライブ・エイド (1985年)、 英国レコード産業協会 の特別功労賞の受賞式(1988年)、 結成25周年記念ツアー (1989年)で結集してザ・フー名義の一時的な活動を行なった 。そして1996年、3人は プリンス・トラスト ( 英語版 ) のコンサートでアルバム『四重人格』を完全再現する為に再結集したことをきっかけに、ザ・フーの本格的な復活を果たした。彼等がサポート・メンバーとして迎えたドラマーは、 リンゴ・スター の長男で、少年時代にムーンに可愛がられてドラムを教えてもらった ザック・スターキー だった。以後2023年現在まで、ザ・フーのステージでは幾つかの例外を除いてスターキーがドラムを叩き続けている 。

1979
キース・ムーン ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、かつ

ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、かつてないほど活動続行へ燃えている。キースがバンドに注いでくれた精神を持ち続けていこうと思ってる。例え彼の代わりになる人間などいないとわかっていても」という声明文を発表して 、ザ・フーの活動継続を宣言した。翌 1979年 、彼等は元 フェイセズ の ケニー・ジョーンズ を加入させ本格的に活動を再開するが、やはりムーンを失った影響の大きさには耐えられず、 1982年 9月から12月までフェアウェル・ツアーを行なって解散した。

1978
キース・ムーン 1978年9月1日、ムーンは映画『キッズ・アー・オールライト』の無音部分に音を重ねるためのレコーディングに参加したが、2、3時間もすると

1978年9月1日、ムーンは映画『キッズ・アー・オールライト』の無音部分に音を重ねるためのレコーディングに参加したが、2、3時間もすると スティック を握るのがやっとの状態になったという 。

1977
キース・ムーン 1977年 9月、ザ・フーは新作アルバムの為のリハーサルを開始し、翌 1978年

1977年 9月、ザ・フーは新作アルバムの為のリハーサルを開始し、翌 1978年 5月までレコーディングを行なった。この頃になると彼はもはや6/8拍子を叩くことができなくなっていたという 。彼がミスを連発するのに堪えかねて、タウンゼントが「真面目にやらないなら辞めろ」と怒ると、彼は「 俺は世界一のキース・ムーン・スタイルのドラマーだ! 」と怒り返してきたという 。5月25日には シェパートン・スタジオ ( 英語版 ) に500人ほどの聴衆を特別に招待して、ザ・フーの ドキュメンタリー 映画『 キッズ・アー・オールライト 』の為のライブが行われた。彼の体調は優れなかったが演奏は上手くいき、聴衆も非常に熱狂して撮影は成功した 。このライブが彼の最後のステージとなった 。8月、3年ぶりの新作『 フー・アー・ユー 』発表。このアルバムが彼の在籍中にザ・フーが発表した最後のオリジナル・アルバムになった。

1975
キース・ムーン 1975年3月、唯一のソロ・アルバム『 トゥー・サイズ・オブ・ザ・ムーン 』を発表。 リンゴ・スター や ジョー・ウォルシュ

1975年3月、唯一のソロ・アルバム『 トゥー・サイズ・オブ・ザ・ムーン 』を発表。 リンゴ・スター や ジョー・ウォルシュ など豪華ゲストを迎え、自ら ボーカル をとった。200,000ドルもの制作費が費やされたものの 、アルバムはチャートインを果たせず、制作費を回収するには至らなかった 。しかし彼は懲りずに、同年9月、周囲の反対を押し切って2枚目のソロアルバムのためのレコーディングセッションを行う 。アルバムは結局完成せず、この時に録音された楽曲は、のちに『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』のCDにボーナストラックとして収録された 。

キース・ムーン アルバム『 ザ・フー・バイ・ナンバーズ

アルバム『 ザ・フー・バイ・ナンバーズ 』の発表に伴って、ザ・フーが1975年の年10月初めから翌1976年10月末までヨーロッパと北米でおこなったツアーは大きな成功に終わり、彼らは ローリング・ストーン 誌の1976年最優秀グループに選ばれた。しかしムーンはツアーの合間の 1976年 1月、ロンドンでアルコールの禁断症状を起こし一時意識不明に陥る 。また同年3月9日、二巡目のアメリカ・ツアーの初日のボストン公演では、開始間もなく倒れてコンサートを中止させてしまった 。同年8月には マイアミ で致死量に至るほどの飲酒をし、8日間の入院を余儀なくされている。その際に医師から「飲酒を控えなければ3か月以内に死ぬだろう」と警告された 。10月21日のトロント公演で終わったこのツアーが、ムーンの生涯で最後のものになった。10月23日にはイギリスの報道機関が、彼が12月15日にロサンゼルスでウォルター=ラックスと再婚する予定であると報じたが 、彼の生活が改まることはなく、健康状態は悪化の一途をたどり、ザ・フーはライブ活動から遠ざかっていった 。

1974
キース・ムーン 1974年 4月、イギリスを離れ、ガールフレンドでスウェーデン人モデルのアネット・ウォルター=ラックス(Annette

1974年 4月、イギリスを離れ、ガールフレンドでスウェーデン人モデルのアネット・ウォルター=ラックス(Annette Walter-Lax)と共に ロサンゼルス 郊外の マリブ に移住 。 ジョン・レノン や ハリー・ニルソン と毎晩のように飲み歩く。レノンのプロデュースによって同年に発表されたニルソンのアルバム『 プシー・キャッツ 』にドラマーとして参加 。彼はザ・フーのメンバーの中で唯一ソロ作品を発表していなかったが、二人に影響されてソロ・アルバムを製作し始めた 。また4月に始まった映画『 トミー 』(1975年公開)の撮影で叔父アーニーを演じた 。

キース・ムーン 9月6日、 バディー・ホリー を記念して ポール・マッカートニー がロンドンで主催したパーティーにウォルター=ラックスと出席 。

9月6日、 バディー・ホリー を記念して ポール・マッカートニー がロンドンで主催したパーティーにウォルター=ラックスと出席 。 メイフェア にあるフラットに戻って、翌7日の朝、彼女が作った朝食をとり、アルコール依存症の離脱症状を抑えるヘミネブリン( クロメチアゾール ( 英語版 ) )を32錠も飲んで 、昼寝についた。ウォルター=ラックスは彼のうるさい鼾から逃れるために別の部屋にいたが、彼女が午後3時ごろ寝室を覗くと、彼はうつぶせのまま動かなくなっていた。すぐさま病院に担ぎ込まれたが死亡が確認された。享年32歳。警察は検死の後、死因は飲み込んだ32錠のヘミネブリンのうち6錠が消化されたことによる オーバードーズ であると発表した 。 尚、彼が最期を迎えたフラット(メイフェア・カーズン街9の12号フラット)は、1974年に元 ママス・アンド・パパス の キャス・エリオット が死亡した部屋と全く同じだった。更に2人の享年は共に32歳だった。 。

1973
キース・ムーン 1973年 、ムーンの乱行に耐えられなくなった妻キムが娘のアマンダを連れて家を出て行き 、彼はさらに自暴自棄になっていく 。アルバム『

1973年 、ムーンの乱行に耐えられなくなった妻キムが娘のアマンダを連れて家を出て行き 、彼はさらに自暴自棄になっていく 。アルバム『 四重人格 』発表に伴う北米ツアーの初日に当たる11月20日の カリフォルニア州 デイリー・シティ 公演では、ファンからもらった酒と動物用の 鎮静剤 の混ぜ物を本番前に飲んでしまい、本番中に意識を失って担ぎ出された。残ったメンバーは、観客からドラムを叩ける者を彼の代役に募って急場を凌がざるを得なかった 。12月2日の モントリオール 公演の後には、滞在先のホテルで破壊騒ぎを起こして、タウンゼントやエントウィッスルを含めた関係者16人と共に一晩 牢屋 に入れられた 。

1971
キース・ムーン 1971年 、 フランク・ザッパ の映画『 200モーテルズ ( 英語版 ) 』に尼僧役で出演

1971年 、 フランク・ザッパ の映画『 200モーテルズ ( 英語版 ) 』に尼僧役で出演 。後に本格的に俳優としても活動したダルトリーに先んじた俳優デビューを果たし、以後数年に渡って、その強烈なキャラクターを生かして脇役として活躍した 。翌 1972年 12月にロンドンで開かれた ロンドン交響楽団 と イギリス室内合唱団 の『 トミー 』の チャリティー ・コンサートに、リンゴ・スターの代役でトミーの叔父アーニー役で出演 。