キース・ムーン

1970
キース・ムーン 1970年

1970年 1月、あるパーティの帰りに、彼や妻キムの乗る車が若者の集団に囲まれて襲撃を受ける。彼の運転手だったコーネリアス・ボランドが道を空けさせようと車から降りたところを、彼は誤って車を発進させ、ボランドを轢いて死なせてしまう 。彼は謹慎の身となるが、2月に裁判所でボランドの死は事故と断定され、彼は無罪となった。なお、当時彼は飲酒した上に無免許であったが、これについても情状酌量により刑罰は与えられなかった 。だがこの事件は彼に暗い影を落とし、以後彼の行動はさらに厄介なものになっていった 。

キース・ムーン ムーンはザ・フーの「 サマータイム・ブルース 」 (1970年)でも秀逸なドラミングを披露した。同曲は エディ・コクラン

ムーンはザ・フーの「 サマータイム・ブルース 」 (1970年)でも秀逸なドラミングを披露した。同曲は エディ・コクラン の原曲(1959年)をカバーしたもので、ウッドストックでの演奏場面が映画『 ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間 』(1970年)に収録されて人気を呼び、彼等の代表曲となった。

1966
キース・ムーン だが内紛はこれで収まったわけではなかった。 1966年

だが内紛はこれで収まったわけではなかった。 1966年 になると今度はムーンが脱退を考えるようになる。2月、彼はちょうど前任のドラマーが脱退したばかりの アニマルズ への加入を目論んでいた 。同年5月、 ジェフ・ベック に招かれセッションに参加。他のメンバーは ジミー・ペイジ (ギター)、 ジョン・ポール・ジョーンズ (ベース)、 ニッキー・ホプキンス (ピアノ)。ムーンはこのバンドを レッド・ツェッペリン と命名。このセッションで「 ベックス・ボレロ 」を録音した。これがムーンにとってプロデビュー後初めてのザ・フー以外での仕事となったが、タウンゼントはこのセッションについて「あれは政治的な動きだった。キースはこうすることで俺達にザ・フーに戻って欲しいと言わせようとしてたのさ」と語っている 。なお「ベックス・ボレロ」は、ベックの1stソロシングル「 ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング ( 英語版 ) 」のB面として発表され、後に第一期 ジェフ・ベック・グループ の1stアルバム『 トゥルース 』に収録された。

キース・ムーン 1966年から1969年までの間、ムーンは「恋のピンチ・ヒッター」「マジック・アイ」「ボリス・ザ・スパイダー」などのザ・フーの代表曲の演奏に

1966年から1969年までの間、ムーンは「恋のピンチ・ヒッター」「マジック・アイ」「ボリス・ザ・スパイダー」などのザ・フーの代表曲の演奏に参加した。彼等は、 モンタレー や ウッドストック などの ロック・フェスティバル に積極的に出演して、世界のロック・ファンに知られるようになり、ムーンの豪快なドラミングも人々に強烈な印象を与えた。

1965
キース・ムーン 1965年 、ザ・フー名義での1stシングル「 アイ・キャント・エクスプレイン 」が全英8位という好調なスタートを切った

1965年 、ザ・フー名義での1stシングル「 アイ・キャント・エクスプレイン 」が全英8位という好調なスタートを切った 。しかし、バンド内では ドラッグ の使用をめぐり、 ロジャー・ダルトリー と他の3人の間に深刻な対立が起こっていた。緊張の糸は9月のヨーロッパツアー中についに切れた。ダルトリーはドラッグでハイになったムーンに激怒し、彼の錠剤を全て トイレ に流してしまった。ムーンは タンバリン を武器にダルトリーに襲い掛かるが、ダルトリーに殴り返され気絶してしまう。タウンゼント、エントウィッスル、ムーンの3人は全員一致でダルトリーの解雇を決断するが、ダルトリーの謝罪とマネージャーの キット・ランバート の説得により、何とか元の鞘に収まった 。65年には「マイ・ジェネレーション」でもドラムをプレイした。同曲はパンクのルーツの1曲として記録されている。

1963
キース・ムーン 1963年 4月、 ビーチコーマーズ というセミプロ・バンドに加入。同年10月にはシングルを発表しているが

1963年 4月、 ビーチコーマーズ というセミプロ・バンドに加入。同年10月にはシングルを発表しているが 、このバンドは本格的にプロを目指そうとはしていなかった。このバンドに在籍していた頃からムーンは ザ・ディトゥアーズ(後のザ・フー) のことは耳にしていた 。1964年、ザ・フーが新ドラマーを探しているという噂を聞きつけ、4月の終わりにザ・フーのギグに訪れた。当時のザ・フーは前任のドラマー、ダグ・サンダムが脱退し、急場しのぎで別のドラマーを雇っていたが、ギグの途中でムーンの友人が「俺の連れのほうが上手い」とムーンをステージに上げた。その場で ボー・ディドリー の「 ロード・ランナー 」を演奏したが、ムーンはそのパワフルな演奏でドラムを壊してしまい、メンバーの度肝を抜いた。 ジョン・エントウィッスル は「キースの演奏を見た瞬間、『こいつに決まりだ!』と思った」と当時を振り返っている。 ピート・タウンゼント もまた「キースを見出した時が正に俺達のターニングポイントだった」と認めている 。

1955
キース・ムーン 1955年 、 映画 『 暴力教室 』の主題歌「 ロック・アラウンド・ザ・クロック 」を聴いたことにより ロックンロール

1955年 、 映画 『 暴力教室 』の主題歌「 ロック・アラウンド・ザ・クロック 」を聴いたことにより ロックンロール に目覚める。12歳の頃より、地元の鼓笛隊で ラッパ や トランペット を吹き始めるが、全く上達しなかった。やがて ドラム に転向し、16歳の頃に本格的なドラムキットを購入。地元の学校仲間とバンドを組んでプレイしていたが、やがてセミプロのバンドに加入し、本格的に音楽活動を行うようになった 。当時、イギリスの労働者階級の子弟は、中学卒業後すぐに就職するケースが圧倒的に多かった。ムーンも15歳で学校を卒業し、 1964年 にザ・フーに加入するまでの間に、印刷工や電気工見習いなど、23回も職を変えた 。