1985年 、初のベスト盤となる『 ザ・シングルズ ’81-’85 』を発表。アメリカでは同時期に Catching Up with Depeche Mode という収録曲が一部異なるベスト盤も発売されている。
翌 1985年 2月11日、セカンド・アルバム『 ミート・イズ・マーダー 』が発売された。『ミート・イズ・マーダー』は結局、コンピレーションアルバムを除けばザ・スミス唯一のUKチャート1位に輝いたアルバムとなった 。
1985年はザ・スミスにとって、スタジオでサード・アルバムの収録をしながら、イギリスとアメリカでツアーを続ける苛酷な1年だった。 翌年 、まずシングル「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」がリリースされ、間をおかずに1986年6月、アルバム『 ザ・クイーン・イズ・デッド 』が発売された。UKチャートでは最高2位となり 、音楽誌「SPIN」の1989年の特集「これまで制作された最高のアルバム」では第1位に選ばれた。その他NME紙やメロディ・メイカー紙など、数多くのロック誌や音楽出版物の行う「グレイテスト・アルバム」企画では、『ザ・クイーン・イズ・デッド』がしばしばトップ10にランクインしている。 2006年 6月には、NMEは全紙面を使って『クイーン・イズ・デッド』発売20周年特集を組んだ。また、同アルバム収録の「ゼア・イズ・ア・ライト・ネヴァー・ゴーズ・アウト」は活動中にシングルカットされたものではなかったにもかかわらず、2012年現在でも最もファンの支持を集める曲の一つである 。
タウンゼント、ダルトリー、エントウィッスルは ライブ・エイド (1985年)、 英国レコード産業協会 の特別功労賞の受賞式(1988年)、 結成25周年記念ツアー (1989年)で結集してザ・フー名義の一時的な活動を行なった 。そして1996年、3人は プリンス・トラスト ( 英語版 ) のコンサートでアルバム『四重人格』を完全再現する為に再結集したことをきっかけに、ザ・フーの本格的な復活を果たした。彼等がサポート・メンバーとして迎えたドラマーは、 リンゴ・スター の長男で、少年時代にムーンに可愛がられてドラムを教えてもらった ザック・スターキー だった。以後2023年現在まで、ザ・フーのステージでは幾つかの例外を除いてスターキーがドラムを叩き続けている 。
1985年にバンド「 ハウスマーティンズ ( 英語版 ) 」に ベーシスト として加入 。1986年に アイズレー・ジャスパー・アイズレー ( 英語版 ) の”Caravan of Love”のカヴァーで 全英シングルチャート 1位を獲得 。1988年にハウスマーティンズは解散 。
レインボーは7作目のアルバム『 ストリート・オブ・ドリームス 』と同年3月の日本公演 を最後に活動を停止、解散する。
『ザ・スミス・ストーリー 心に茨を持つ少年』において、バンド名の由来とされる、 モリッシー に影響を与えた ザ・フォール のメンバー、マーク E.スミスの名前を引用したという説に対し彼らは否定をした。 モリッシーは 1984年 のインタビューで「僕が(自分達のバンドをザ・スミスと呼ぶことに)決めた理由は、スミスは最もありふれた名前だからで、今は世界中の普通の人たちが顔を見せる時だと思うんだ」と述べている 。
1984年 に発表された『 サム・グレート・リウォード 』は、挑発的な楽曲が込められた作品であり、売り上げも過去最高のものとなる。先行シングルとなった「People Are People」は全英チャート4位、全米チャート13位など欧米でヒット。バンドのイメージを一新する、 人種差別 と 暴力 をテーマにしたこの曲は、様々なアーティストがカバーした。アメリカでは サイアー・レコード から同名のミニアルバムが発売されている。
1984年 、ブラックモアはグローヴァーと共にディープ・パープルの再結成に参加。
1984年 2月に、バンドは長らく待たれていたデビュー・アルバム『 ザ・スミス 』を発表する 。すでに支持層は厚く、このアルバムはUKチャートの2位に達する成功を収めた。