1996年秋、イネスの提案から6ヶ月の休暇を挟んだバンドには、解散したザ・ストーン・ローゼズからベーシストの ゲイリー・モンフィールド が加入した 。「マニ」のニックネームを持つこの男は、シングルにもなった「コワルスキー」、そして「モーターヘッド」のカバーの2曲でベースを弾き、バンドに再び勢いを取り戻した。マッギーは「ここでバンドとしての在り方と自らの音楽を見直した」としている 。この頃からソングクレジットにはマニとダフィの名も加えられた。
1996年 、インディーズでのライブ活動が徐々に評判となりだしたフォニックスのもとに、 ヴァージン・アトランティック航空 の総裁 リチャード・ブランソン が新設した V2レコード の第1弾アーティストとしての契約話が舞い込む。
そして ブリットポップ ブームの絶頂期にあった 1996年 、メジャー・デビュー作となるファースト・アルバム『1977』をリリース。「ガール・フロム・マーズ」(全英11位)に代表される若々しく躍動感に満ちたこのアルバムは全英チャートで1位に輝き、「ゴールドフィンガー」(全英5位)、「オー・イエー」(全英6位)などのシングルヒットも加わって瞬く間にプラチナム・セールスを記録。10代のバンドとして破格の成功を収めることとなった。
1996年に3rdアルバム『ハッピー・ポケット』を発売。同作はイギリスと日本では発売されたが、アメリカではレーベル側が販売を拒否したため、アメリカでは発売されなかった。同年にゴー・ディスクズは、 ユニバーサル ミュージック グループ に買収されたことにより解体。自主スタジオのシャビー・ロード・スタジオも売却することとなった 。
1996年 1月 にマークが脱退。
薬物治療を経て回復した矢先の 1996年 5月28日 、親族から電話で懲りずに繰り返すと言われたことに逆上し、 ロサンゼルス のホテルの一室で ヘロイン と コカイン の混合物を大量に注射し、手首を切って自殺を図った。偶然、友人がデイヴの滞在していた部屋を尋ね、意識を失ったデイヴを発見し通報、病院へと搬送された。その途中、デイヴの心臓が2分間止まっている。一命は取り留めたものの、2日後に警察に逮捕され、裁判の結果9ヶ月のリハビリを命じられ、これを達成する。以来、長年使用していた薬物と縁を切り、住んでいたロサンゼルスを離れ ニューヨーク へと移った。
1996年 、ザ・スミスの4人は、 裁判所 で解散後初めて顔をそろえた。ドラマーのマイク・ジョイスは、作詞作曲者のモリッシーとマーに対して、ザ・スミスのレコーディングとライブからの利益のうちジョイスとルークにそれぞれ10%しか許可しなかったことを不服として調停を申し出ていた。
シングル「スキン・アップ・ピンナップ」リリース後の1995年11月、 イギリス で パーロフォン 、 アメリカ でEpic Sonyとレコード契約を結ぶ( 日本 では 東芝EMI )。
1995年8月、自身の立ち上げたレーベルSci-Fi Hi-Fi Recordingsより初のシングル「テイク・イット・イージー・チキン」を1000枚限定でリリースし完売する。
1995年 6月 、アランがバンドからの脱退を表明する。その理由として、「バンドでの音楽面の貢献に対する自分への敬意が払われていない」と主張した。