rock

1975
スチュワート・コープランド ミッドナイト・ワイアー

彼らは、マイルスが設立したBTMレコード から『ミッドナイト・ワイアー』(1975年)

プライマル・スクリーム ボビー・ギレスピー とロバート・ヤングは、共に グラスゴー のキングスパーク・セカンダリースクールに通っていた

ボビー・ギレスピー とロバート・ヤングは、共に グラスゴー のキングスパーク・セカンダリースクールに通っていた 。ギレスピーの父は熱心な労働党支持者で、労働組合の幹部を務めていた。ギレスピーには2つ年上の アラン・マッギー という友人がいた。当初ギレスピーとマッギーは大親友という程ではなかったが、ギレスピーが誘った シン・リジー のショーをきっかけに連れ立ってコンサートへ足を運ぶようになっていった 。彼らは当時流行していた パンク・ロック を通じて親交を深め、マッギーが1975年に学校を退学する頃には互いの一番の親友となっていた 。パンクに出会った彼らは反抗期を迎え、音楽のこと以外には興味を示さなくなった。当時の彼らはいつも喧嘩腰で、信じられないほどの癇癪持ちだったという 。

リタ・フォード 17歳となる 1975年 に「 ザ・ランナウェイズ 」に加入し、リード・ギタリストを務めた 。

17歳となる 1975年 に「 ザ・ランナウェイズ 」に加入し、リード・ギタリストを務めた 。

ザ・ランナウェイズの歴史は 1975年 終盤、 カリフォルニア州 ロサンゼルス で サンディ・ウェスト (ドラムス)と ジョーン・ジェット

ザ・ランナウェイズの歴史は 1975年 終盤、 カリフォルニア州 ロサンゼルス で サンディ・ウェスト (ドラムス)と ジョーン・ジェット が(リズム・ギター)が、プロデューサーの キム・フォーリー の紹介で知り合ったところから始まる。ウェストの自宅で対面した2人は意気投合し、フォーリーにメンバー探しの支援を依頼。 ミッキー・スティール (ボーカル、ベース)を迎えてパワー・トリオとして活動を開始し、ロサンゼルス近辺のパーティ会場やクラブで演奏した。

サージ・タンキアン ロサンゼルス に移住した

1975年に家族で アメリカ の ロサンゼルス に移住した。

エアロスミス 1975年4月、3rdアルバム『 闇夜のヘヴィ・ロック 』を発表。「 ウォーク・ディス・ウェイ 」や「 スウィート・エモーション

1975年4月、3rdアルバム『 闇夜のヘヴィ・ロック 』を発表。「 ウォーク・ディス・ウェイ 」や「 スウィート・エモーション 」もシングルヒットし、アルバムも全米チャート11位(Billboard 200)まで上昇。バンド初のプラチナ・ディスクを獲得した。この勢いで前2作のアルバムのセールスも上がり、シングル「ドリーム・オン」は再発売されて全米チャート6位(Billboard Hot 100)まで上昇した。なお、日本では同年5月に『飛べ!エアロスミス』が発売されて日本デビューとなった。

U2 また、ロンドンで迎えたツアー最終日、U2の楽屋に2人の大物ミュージシャンが訪れ、バンドを激励した。1人は、1975年の『 明日なき暴走

また、ロンドンで迎えたツアー最終日、U2の楽屋に2人の大物ミュージシャンが訪れ、バンドを激励した。1人は、1975年の『 明日なき暴走 』で一躍スターダムにのし上がり、評論家ジョン・ランドーから「ロックンロールの未来」とまで評された ブルース・スプリングスティーン 。そしてもう1人は、 ザ・フー のギタリストでソングライターでもある ピート・タウンゼント だった 。後年、スプリングスティーンは、「彼らの音楽は大きくて、エコーがかかっていた。彼らの音を初めて聴いた瞬間から、大きな空間で鳴っているところが想像できた。感情も大きかったし、アイデアも大きかった」と振り返っており、U2が将来スターになることを予見していた 。

キース・ムーン 1975年3月、唯一のソロ・アルバム『 トゥー・サイズ・オブ・ザ・ムーン 』を発表。 リンゴ・スター や ジョー・ウォルシュ

1975年3月、唯一のソロ・アルバム『 トゥー・サイズ・オブ・ザ・ムーン 』を発表。 リンゴ・スター や ジョー・ウォルシュ など豪華ゲストを迎え、自ら ボーカル をとった。200,000ドルもの制作費が費やされたものの 、アルバムはチャートインを果たせず、制作費を回収するには至らなかった 。しかし彼は懲りずに、同年9月、周囲の反対を押し切って2枚目のソロアルバムのためのレコーディングセッションを行う 。アルバムは結局完成せず、この時に録音された楽曲は、のちに『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』のCDにボーナストラックとして収録された 。

スチュワート・コープランド ツアー・マネージャーを務める

学生生活が終わろうとしていた 1975年 、ロンドンで音楽マネージメントに携わっていた長兄のマイルスから、解散状態にあった プログレッシブ・ロック ・バンドの カーヴド・エア のオリジナル・ヴァイオリニストだった ダリル・ウェイ が新しいバンドのドラマーを探していることを聞いた。彼はロンドンに渡ってウェイらに合流したが、ウェイやカーヴド・エアの他のオリジナル・メンバーが税金対策の為に急遽再結成ツアーを行なうことになったので、そのツアー・マネージャーを務めることになった 。

キース・ムーン アルバム『 ザ・フー・バイ・ナンバーズ

アルバム『 ザ・フー・バイ・ナンバーズ 』の発表に伴って、ザ・フーが1975年の年10月初めから翌1976年10月末までヨーロッパと北米でおこなったツアーは大きな成功に終わり、彼らは ローリング・ストーン 誌の1976年最優秀グループに選ばれた。しかしムーンはツアーの合間の 1976年 1月、ロンドンでアルコールの禁断症状を起こし一時意識不明に陥る 。また同年3月9日、二巡目のアメリカ・ツアーの初日のボストン公演では、開始間もなく倒れてコンサートを中止させてしまった 。同年8月には マイアミ で致死量に至るほどの飲酒をし、8日間の入院を余儀なくされている。その際に医師から「飲酒を控えなければ3か月以内に死ぬだろう」と警告された 。10月21日のトロント公演で終わったこのツアーが、ムーンの生涯で最後のものになった。10月23日にはイギリスの報道機関が、彼が12月15日にロサンゼルスでウォルター=ラックスと再婚する予定であると報じたが 、彼の生活が改まることはなく、健康状態は悪化の一途をたどり、ザ・フーはライブ活動から遠ざかっていった 。