ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、かつてないほど活動続行へ燃えている。キースがバンドに注いでくれた精神を持ち続けていこうと思ってる。例え彼の代わりになる人間などいないとわかっていても」という声明文を発表して 、ザ・フーの活動継続を宣言した。翌 1979年 、彼等は元 フェイセズ の ケニー・ジョーンズ を加入させ本格的に活動を再開するが、やはりムーンを失った影響の大きさには耐えられず、 1982年 9月から12月までフェアウェル・ツアーを行なって解散した。
ザ・ランナウェイズが 1979年 に解散すると、ソロ活動を開始 。 1983年 に最初のスタジオ・アルバム『呪われた女 (ブラック・ウィドー)』、翌1984年に2作目『魔界の戯れ』をリリース。後者は Billboard 200 で65位にランクインした。
1979年 に ボブ・モールド 、 グレッグ・ノートン 、 グラント・ハート 、チャーリー・パイン( キーボーディスト )の4人で結成したBuddy and the Returnablesというバンドが前身 。モールドとハートは共に ラモーンズ のファンであり、2人はノートンとパインを誘い一緒に演奏するようになるが、パインの キーボード 音が乗ったサウンドに他のメンバーは嫌悪感を示すようになり、パイン抜きで演奏の練習をするようになる。この頃からバンド名を「ハスカー・ドゥ」に変更した。バンド名のハスカー・ドゥ(Hüsker Dü)とは 1970年代 に発売された ボードゲーム の名称(Hūsker Dū?)であり、 デンマーク語 / ノルウェー語 で「覚えてる?」という意味である。
1979年5月。CBSから 同名アルバム (またの名をL’Élite)をリリースした。ロンドンで録音されたその歌詞は、ラジオ局やフランスの一部の都市でしばしば検閲の対象となる。初年度だけで100万枚以上が売れ、 レーベル の予想を大幅に上回った。注目のパフォーミングと、フランス全土を巡るツアーにより売上は拡大し、多くの会場を満員にした。その名声はヨーロッパに広がり、1980年には「L’Élite」の楽曲が イングランド で 「キラーワッツ」 の コンピレーションアルバム に収録され、 英国 のロックチャートで1位を獲得する 。マナはマネージャーの役職に就き、ベースは イヴ・ブルスコ ( フランス語版 ) (Yves Brusco/愛称ヴィヴィ)が引き継ぐ。1980年1月12日、バンドは8,000人の観客を前に、 パヴィヨン・ド・パリ ( フランス語版 ) で記念すべきライブを行う。
1979年11月、セカンド・アルバム『メタル・ボックス』を発表。ドラマーのウォーカーは制作開始時には既に在籍しておらず、ドラムはデービッド・ハンフリー、リチャード・デュダンスキー、ウォブル、レヴィン、 マーティン・アトキンス によって演奏された。このアルバムはヒットチャートの上位にランクインし、音楽的なユニークさからも彼等の代表作とされている。発表直後、ウォブルが意見の相違のためバンドを脱退。彼の最初のソロ・アルバムは、『メタル・ボックス』の音源を無断流用したものだった。またアトキンスも一旦解雇となる。
リムリックでの優勝を果たした後、バンドはアイルランドの有力音楽誌『ホットプレス(Hot Press)』のライターだった ビル・グラハム ( 英語版 ) と知り合う。グラハムは早くからU2の可能性に目をつけ、当時バンドのマネージャー役を務めていたアダムから頼まれて、彼らのリハーサルを見に行った。グラハムはそこでU2の可能性を感じ、大学時代からの友人だった ポール・マクギネス ( 英語版 ) を紹介する。マクギネスは当初、彼らの才能には懐疑的だったが、 1978年 5月18日 、ダブリンのProject Arts Centreでライブを見たことで、4人の熱意、誠実さ、野心に惹かれ、マネージャーを引き受けることになった 。
1978年3月18日、U2はLimerick Civic Week Pop ’78に出場。「Street Missions」「Life On A Distant Planet」「The TV Show」の3曲を演奏し、36組のバンドとの争いを勝ち抜いて、見事優勝した。賞金は500ポンド、他にトロフィーとCBSアイルランドでデモセッションをする権利を得た。そしてこれを機に、エッジの兄・ディックは学業に専念するために、正式にバンドを脱退した 。
1978年 2月、 アイルランド国営放送 (RTÉ)のプロデューサーの前で、自分たちの曲だと偽って ラモーンズ の「Glad to See You Go」を演奏したザ・ハイプは、好意的な評価を得て初めてのテレビ出演を果たし、オリジナル曲の「The Fool」を演奏した 。
1978年
1978年に BBC の トップ・オブ・ザ・ポップス に出演して、覆面をしたスティング、サマーズ、ポリスのツアー・マネージャーのキム・ターナー 、カーヴド・エアのオリジナル・ドラマーだった フロリアン・ピルキントン・ミクサ をバックに リップ・シンク で”Don’t Care”を披露した。