本作に対するメディアからの強いバッシングは、バンドにとって大きな転機となった。彼らは1980年代に定着した「生真面目なロックバンド」というパブリック・イメージを見直し、次なる1990年代に向けて、音楽性および表現手法(アイロニーやユーモアを取り入れたアプローチ)の大幅な軌道修正を図ることになった 。
1980年 にリリースされたグリーン10 インチ アルバム である Klark Kent などである 。
1980年代後半に受けた激しいバッシングを経て、バンドは1990年代に向けた根本的な方針転換を図ることになった。彼らはかつての生真面目なパブリック・イメージを自ら解体し、新たにヨーロッパのインダストリアル・ミュージックやエレクトロニック・ダンス・ミュージックの要素を大々的に取り入れることを決断する。プロデューサーには再びブライアン・イーノとダニエル・ラノワを起用するとともに、 デペッシュ・モード や ナイン・インチ・ネイルズ などを手掛けた気鋭のエンジニア兼プロデューサー、 フラッド を新たに招き入れた 。 1990年末、東西統一直後のドイツ・ ベルリン にある ハンザ・スタジオ (かつてデヴィッド・ボウイが ベルリン三部作 を録音した伝説的スタジオ)でレコーディングが始まった。しかし、制作初期にメンバー間で音楽的方向性をめぐる意見の対立が生じた。ボノとエッジが新たな音楽的実験を推し進めようとしたのに対し、ラリーとアダムは、従来のU2らしいロック・サウンドを重視していたためである。一時はバンドの解散さえ危惧される状況となったが、エッジが演奏した二つのコード進行をきっかけに、メンバー4人による即興的なセッションから「 ワン 」が生まれた。この曲の制作を通じてメンバーは再び音楽的な結びつきを取り戻し、バンドは制作を継続することになった 。
1980年3月、ジョー・ペリー・プロジェクトが1stアルバム『熱く語れ!』を発表。一方、スティーヴンの負傷などにより活動が停滞していたバンドは、10月に初の ベスト・アルバム 『グレイテスト・ヒッツ』を発表する。
こうした音楽性とステージ演出の転換によって、U2は1980年代に形成された生真面目で社会的・宗教的なイメージから大きく変化し、1990年代の音楽シーンにおいて新たな存在感を示すこととなった 。
同年9月には、ラスベガスに開業した巨大な球体型会場「Sphere」で、 U2:UV アクトン・ベイビー・ライブ・アット・スフィア を開始した。『アクトン・ベイビー』を軸にしたこの公演は、会場全体を巨大な映像空間として利用する圧倒的な没入型ライブとなり、U2は1980年代から追求してきたロックと映像・テクノロジーの融合を、さらに極端なレベルへと押し進めた。当初の予定を大幅に延長し、最終的には2024年3月2日まで40公演を開催。最終公演では、長年U2のドラマーを務めるラリ-7も会場に姿を見せ、U2は「 40 」の演奏で40公演の歴史的なランを締めくくった。
1980年 に解散し 、コリン・ニューマンはソロ活動を開始。シングルやアルバムを精力的にリリースする。ルイスとギルバートは ドーム を結成し アンビエント・ミュージック 、 インダストリアル・ミュージック にのめり込んだ。
「高校教師」(Don’t Stand So Close to Me:1980年)「ドゥ・ドゥ・ドゥ・デ・ダ・ダ・ダ」
1980年代 初頭には勢いを失うが、1980年代中期から再び脚光を浴び、 1989年 には豪華ゲストを迎えた『 トラッシュ 』が大ヒットを記録した。その後も幾度となく浮沈を繰返したが、現在においてもなお精力的に活動を行っており、「 キッス 」や「 エアロスミス 」と並ぶ、アメリカン・ ハードロック 界の重鎮ともいえる存在である。
1980年の6月、マッギーはイネスの誘いで ロンドン へ上京した 。マッギーはグラスゴー時代と変わらず イギリス国鉄 で働き、同僚女性と結婚した。彼はイネスと自身のバンドで活動する傍らリヴィング・ルームというクラブイベントを主催し、次第にインディー界隈で名の知られる存在になっていった 。一方イネスは薬物中毒に陥った結果肝炎になり、後に肝臓を一つ摘出した 。