マシュー・ベラミー 、 ドミニク・ハワード が学生時代に デヴォン州 ティンマス ( 英語版 ) でバンドを結成し、バンドからベーシストが脱退 。同じリハーサルスタジオで別のバンドのドラマーとして活動していた クリス・ウォルステンホルム にベーシストとしての加入を説得し、バンド「The Rocket Baby Dolls」を結成 。1994年に ミューズ ( 英 : Muse )に改名して本格的に活動を開始する 。
1994年発表のパール・ジャムのアルバム『Vitalogy(邦題: バイタロジー(生命学) )』の制作期間中に、当該バンドのギタリストであるマイク・マクレディは ミネソタ州 のHazeldenクリニックのドラッグ・アルコールのリハビリ施設に入り、そこでベーシストのジョン・ベイカー・ソーンダースと出会う 。二人は1994年に ワシントン州 シアトル に戻り、ドラマーのバレット・マーティンを迎えてサイド・バンドを結成した。マクレディはパール・ジャムや テンプル・オブ・ザ・ドッグ といったバンドでプレイし、マーティンは スキン・ヤード およびスクリーミング・トゥリーズ、そしてソーンダースはLittle Pat Rushing、 ヒューバート・サムリン 、Sammy FenderおよびThe Lamont Cranston Bandのような ブルース の面々と共に活動していた 。3人はすぐにリハーサルをおこない、後に『Above』に収録される「Wake Up(邦題:ウェイク・アップ(覚醒))」と「River of Deceit」の2曲を書いた。それからマクレディは友人でアリス・イン・チェインズのフロントマンであるレイン・ステイリーをラインアップに加え、これでバンドの主要メンバーが揃うこととなった。これは、マクレディがしらふ(中毒者でない)のミュージシャンとステイリーが活動を共にすることにより、ステイリー自身もしらふになることを願ってのことであった 。
1994年、一度のジャム・セッションのレコーディングと一度のライブを終えてメンバーのうちの2人が脱退した。
シングル曲が完成していない(マーティンによると、曲の序盤のみ)うえにバンド名さえ決まっていないにもかかわらず、マクレディは1994年10月12日にクロコダイル・カフェにて予告無しでショーをする予定を入れ、それは大きな成功へとつながった 。アルバムに収められている「Artificial Red(邦題:アーティフィシャル・レッド(作為の赤) )」はこのショーをプレイする中で形を成した曲である。同会場で更に2回のコンサート(1994年11月6日と20日)が予定され 、彼らは自らを「The Gacy Bunch」と名乗った。”Gacy”は悪名高いシカゴの連続殺人犯のJohn Wayne Gacy(ジョン・ウェイン・ゲイシー)から取り、”Bunch”は1970年代のシチュエーション・コメディである「The Brady Bunch( ゆかいなブレディー家 )」から取ったものである 。1995年1月8日、バンドはパール・ジャムのラジオの衛星放送であるSelf-Pollutionに出演し、「Lifeless Dead(邦題:ライフレス・デッド(生気なき死者)」および「I Don’t Know Anything(邦題:アイ・ドント・ノウ・エニシング(意識不明))」を披露している 。これはシアトルからの4時間半に渡る海賊版のラジオ番組(合法である)で、希望すればどのラジオ局でも放送することが可能であった 。この2曲のパフォーマンスの模様は2013年3月に発売された『Above』のボックス・セットのDVDで視聴することができる。
1994年、初来日公演。
パンク・ロック バンドとして人気を誇った KENZI&THE TRIPSの知名度もあって精力的にバンド活動を展開した第一期the pillowsであったが、一方でバンド内での音楽的なイニシアティブの相違は徐々に深まり、1993年にリーダーの上田が脱退するにいたった。第一期the pillowsは上田ケンジと山中さわおという2人の コンポーザー を有していたが 、それぞれの目指す音楽性やバンドの方向性には次第に不可逆的なズレが生じていたという 。リーダーを失ったthe pillowsは、レコード会社の移籍なども重なり、およそ一年間にわたって表立ったバンド活動が休止状態となった 。
続く1993年には、ニュー・アルバム『イン・ユーテロ』を発表している。予想された程の売れ行きではなかったが、アメリカとイギリスのチャートのトップにランクインした。
1993年、1度レコーディングしていた曲を聴き込み、それらの曲を一旦破棄し、改めて制作した楽曲をレコーディングするなどして熟考を重ねた、11thアルバム『 ゲット・ア・グリップ 』を発表。バンド初の全米チャート1位(Billboard 200)を獲得し、世界中のメインチャートでもTOP3入り(スイス1位、イギリス2位、オランダ2位、オーストリア3位、ドイツ3位、オーストラリア3位等)し、結果、前作を超える1600万枚以上の大ヒット作となった。同アルバムからは、「リヴィング・オン・ジ・エッジ」、「クライン」、「クレイジー」、「アメイジング」等のシングルも、立て続けにヒットした。MTV Video Music Awardsでは「リヴィング・オン・ジ・エッジ」が「ヴューワーズ・チョイス」を受賞 。同タイトルは、翌1994年の 第36回グラミー賞 でも「ベスト・ロック・パフォーマンス」を受賞 。また、「クライン」がMTV Video Music Awardsの最優秀賞に当たる「ビデオ・オブ・ザ・イヤー」を含む、3部門でそれぞれ受賞した さらに翌年「クレイジー」が、 第37回グラミー賞 で「ベスト・ロック・パフォーマンス」を受賞している 。また、同年に開催された日本ツアーでは、横浜・大阪・広島・福岡・名古屋等の各地での公演に続けて、 日本武道館 で計7日間の公演などを行い、初の南米ツアーも行われた。11月にはゲフィン・レコード期から選曲したベスト・アルバム『 ビッグ・ワンズ 』を発表する。
ベン・フォールズ・ファイヴは、1993年にベン・フォールズを中心としてチャペルヒルで結成した。彼らは、バンド名とは異なり3人組だった。ベンはバンド名について「ベン・フォールズ・スリーより響きがよいから」と説明している 。ベンはかつて自分達の音楽を「泣き虫野郎のパンク・ロック」と評していた 。
シュガーキューブス解散後、ビョークは 1993年 に『 デビュー 』でソロ活動を開始し、以降も世界的な成功を収めている。一方、他メンバーは引き続き「バッド・テイスト・リミテッド」の運営に携わっている。