rock

1966
キース・ムーン だが内紛はこれで収まったわけではなかった。 1966年

だが内紛はこれで収まったわけではなかった。 1966年 になると今度はムーンが脱退を考えるようになる。2月、彼はちょうど前任のドラマーが脱退したばかりの アニマルズ への加入を目論んでいた 。同年5月、 ジェフ・ベック に招かれセッションに参加。他のメンバーは ジミー・ペイジ (ギター)、 ジョン・ポール・ジョーンズ (ベース)、 ニッキー・ホプキンス (ピアノ)。ムーンはこのバンドを レッド・ツェッペリン と命名。このセッションで「 ベックス・ボレロ 」を録音した。これがムーンにとってプロデビュー後初めてのザ・フー以外での仕事となったが、タウンゼントはこのセッションについて「あれは政治的な動きだった。キースはこうすることで俺達にザ・フーに戻って欲しいと言わせようとしてたのさ」と語っている 。なお「ベックス・ボレロ」は、ベックの1stソロシングル「 ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング ( 英語版 ) 」のB面として発表され、後に第一期 ジェフ・ベック・グループ の1stアルバム『 トゥルース 』に収録された。

キース・ムーン 1966年から1969年までの間、ムーンは「恋のピンチ・ヒッター」「マジック・アイ」「ボリス・ザ・スパイダー」などのザ・フーの代表曲の演奏に

1966年から1969年までの間、ムーンは「恋のピンチ・ヒッター」「マジック・アイ」「ボリス・ザ・スパイダー」などのザ・フーの代表曲の演奏に参加した。彼等は、 モンタレー や ウッドストック などの ロック・フェスティバル に積極的に出演して、世界のロック・ファンに知られるようになり、ムーンの豪快なドラミングも人々に強烈な印象を与えた。

1965
キース・ムーン 1965年 、ザ・フー名義での1stシングル「 アイ・キャント・エクスプレイン 」が全英8位という好調なスタートを切った

1965年 、ザ・フー名義での1stシングル「 アイ・キャント・エクスプレイン 」が全英8位という好調なスタートを切った 。しかし、バンド内では ドラッグ の使用をめぐり、 ロジャー・ダルトリー と他の3人の間に深刻な対立が起こっていた。緊張の糸は9月のヨーロッパツアー中についに切れた。ダルトリーはドラッグでハイになったムーンに激怒し、彼の錠剤を全て トイレ に流してしまった。ムーンは タンバリン を武器にダルトリーに襲い掛かるが、ダルトリーに殴り返され気絶してしまう。タウンゼント、エントウィッスル、ムーンの3人は全員一致でダルトリーの解雇を決断するが、ダルトリーの謝罪とマネージャーの キット・ランバート の説得により、何とか元の鞘に収まった 。65年には「マイ・ジェネレーション」でもドラムをプレイした。同曲はパンクのルーツの1曲として記録されている。

1963
キース・ムーン 1963年 4月、 ビーチコーマーズ というセミプロ・バンドに加入。同年10月にはシングルを発表しているが

1963年 4月、 ビーチコーマーズ というセミプロ・バンドに加入。同年10月にはシングルを発表しているが 、このバンドは本格的にプロを目指そうとはしていなかった。このバンドに在籍していた頃からムーンは ザ・ディトゥアーズ(後のザ・フー) のことは耳にしていた 。1964年、ザ・フーが新ドラマーを探しているという噂を聞きつけ、4月の終わりにザ・フーのギグに訪れた。当時のザ・フーは前任のドラマー、ダグ・サンダムが脱退し、急場しのぎで別のドラマーを雇っていたが、ギグの途中でムーンの友人が「俺の連れのほうが上手い」とムーンをステージに上げた。その場で ボー・ディドリー の「 ロード・ランナー 」を演奏したが、ムーンはそのパワフルな演奏でドラムを壊してしまい、メンバーの度肝を抜いた。 ジョン・エントウィッスル は「キースの演奏を見た瞬間、『こいつに決まりだ!』と思った」と当時を振り返っている。 ピート・タウンゼント もまた「キースを見出した時が正に俺達のターニングポイントだった」と認めている 。

1960
ジェット (オーストラリアのバンド) ニック・セスター、クリス・セスター兄弟はメルボルン郊外で父のコレクションである 1960年代 、 1970年代 の クラシック・ロック (

ニック・セスター、クリス・セスター兄弟はメルボルン郊外で父のコレクションである 1960年代 、 1970年代 の クラシック・ロック ( AC/DC 、 ザ・フー 、 イージービーツ 、 フェイセズ 、ザ・ラヴド・ワンズ、特に ビートルズ と ローリング・ストーンズ )を聴きながら育った。他にはオーストラリアのロックバンド、 ユー・アム・アイ から大きく影響を受けているとニックは語っている 。

ザ・スミス アルバムのリリース直後、モリッシーの長年のアイドルであった1960年代の女性歌手 サンディ・ショウ

アルバムのリリース直後、モリッシーの長年のアイドルであった1960年代の女性歌手 サンディ・ショウ が「ハンド・イン・グローヴ」をマー、ルーク、ジョイスをバックにレコーディングした。このヒット・シングルで、ザ・スミスはBBCテレビの生放送音楽番組「 トップ・オブ・ザ・ポップス 」で裸足で演奏した 。

U2が登場する以前のアイルランドの音楽シーンは、国際的にはぱっとしないものだった。 ヴァン・モリソン 率いる ゼム

U2が登場する以前のアイルランドの音楽シーンは、国際的にはぱっとしないものだった。 ヴァン・モリソン 率いる ゼム が1960年代半ばにイギリスやアメリカでヒットを放ったものの、その成功は長続きしなかった。 ロリー・ギャラガー や シン・リジィ も世界的な成功とは言い難く、 ボブ・ゲルドフ 率いる ブームタウン・ラッツ は「ラット・トラップ(Rat Trap)」と「 哀愁のマンデイ 」で 全英シングルチャート 1位を獲得し、アイルランドのバンドとして初めて同チャートの首位に立つ快挙を成し遂げたものの、その後は勢いを維持できなかった。このように、当時はアイルランドのバンドにとって、世界的な成功を収めるのは容易なことではなかった 。

U2 のちにU2を結成することになる4人はこの学校で出会い、バンドの歩みをスタートさせた。メンバー間には年齢差があり、1960年生まれのアダムとボ

のちにU2を結成することになる4人はこの学校で出会い、バンドの歩みをスタートさせた。メンバー間には年齢差があり、1960年生まれのアダムとボノに対し、ジ・エッジとラリーは1つ年下(1961年生まれ)の学年であった。また、ポール・ヒューソン(後のボノ)は、のちに妻となる アリソン・スチュワート ( 英語版 ) (アリ)ともここで出会っている。彼にとって彼女の存在は「未来そのもの」に見えるほどの一目惚れであったという 。

1958
リタ・フォード 1958年 9月19日 に ロンドン でイギリス系の父親と イタリア 系の母親との間で生まれた。4歳の時に家族でアメリカへ移住、11歳から

1958年 9月19日 に ロンドン でイギリス系の父親と イタリア 系の母親との間で生まれた。4歳の時に家族でアメリカへ移住、11歳から ギター を弾くようになった。

1957
スチュワート・コープランド ベイルートに転居

1957年 にはベイルートに転居した。