4月21日、『イン・イット・フォー・ザ・マネー』を本国で発表。前作から急激な変化を見せた内容は、メディアから幅広く絶賛された。全英2位、プラチナム・セールスを記録し、全世界で100万枚以上を売り上げるなど、セールス面でも成功を収めた。6月9日、「サン・ヒッツ・ザ・スカイ」をシングルカット。10位を記録。アメリカでは「チープスケート」がシングルカットされた。7月、 フー・ファイターズ のアメリカ・カナダツアー13公演に参加。これ以後、フー・ファイターズとは何度も一緒にツアーを行っている。9月、2度目の来日公演。名古屋・福岡・大阪・東京にて全5公演。10月6日、「レイト・イン・ザ・デイ」をシングルカット。18位を記録。12月、 オアシス の ウェンブリー・アリーナ 3日連続公演にゲスト出演。1998年5月、3枚目のアルバムのレコーディングのために、前作と同じくセルフ・プロデュースでスタジオ入りする。ミキシングもメンバー自ら行ったため制作が長引き、結局アルバムが全て完成したのは翌年の夏頃となった。アルバムのレコーディング以外に、メンバーはそれぞれ課外活動を行っている。ギャズとミックは、 ドクター・ジョン のレコーディングにゲスト参加。2人がギターとベースを演奏した「ヴォイシス・イン・マイ・ヘッド」という曲は、アルバム『 アナザー・ゾーン 』に収録された。一方、ダニーはガールフレンドのパール・ロウらと「ロジャー」というバンドを結成。唯一のアルバム『ウォーク・イン・ザ・パーク』を発表している。ちなみにどちらのアルバムも日本盤が発売されている。
1998年 、難産の末にセカンド・アルバム『ニュー・クリアー・サウンズ』を発表。ブームの狂騒が10代のバンドに与えた重圧は大きく、その結果、陰鬱なテーマを持って完成したこのアルバムは前作に比べ興行的に振るわず、苦戦を強いられることになった(ティム自身「やはり他のアルバムに比べればいい曲は少ないかな」と語っている)。
1997年3月26日、2ndアルバム『イン・イット・フォー・ザ・マネー』を日本で先行発売。ちなみに発売直前に、タイトルにちなんでメンバーがバスキング(路上ライヴで小銭などを稼ぐこと)をしているジャケットに変更されることになったが、日本では差し替えが間に合わなかったためそのまま発売された。同月31日、先行シングル「リチャード三世」をリリース。それまでの明るいイメージを覆すヘヴィな曲ながら、チャート2位を記録。
1月、5度目の来日公演。東京では第1回の ブリティッシュ・アンセムズ に ヘッドライナー として出演。また名古屋・大阪では ザ・デッド60s と 対バン ライヴを行うなど、全3公演。スーパーグラスとしてはこれが最後の来日公演になった。9月10日、 中国 の野外ロックフェス「北京ポップ・フェスティバル」に出演。ちなみに、スーパーグラスは 1997年 に チベット を支援するためのコンピレーション・アルバム『ロング・リヴ・チベット』に参加していたが、中国での出演が実現している。
そして ブリットポップ ブームの絶頂期にあった 1996年 、メジャー・デビュー作となるファースト・アルバム『1977』をリリース。「ガール・フロム・マーズ」(全英11位)に代表される若々しく躍動感に満ちたこのアルバムは全英チャートで1位に輝き、「ゴールドフィンガー」(全英5位)、「オー・イエー」(全英6位)などのシングルヒットも加わって瞬く間にプラチナム・セールスを記録。10代のバンドとして破格の成功を収めることとなった。
1996年
1996年1月~2月、Qアワーズ、 ブリット・アワード 、NMEアワーズの新人賞を総受賞するという快挙を達成。2月26日には、シングル「ゴーイング・アウト」をリリース、チャート5位、10万枚以上を売り上げるヒットを記録した。同年4月、セカンド・アルバムの制作を開始。キーボードのロブ・クームスも全面的に参加し、また前作のエンジニアだったジョン・コーンフィールドの手を借りつつ、メンバー自らがプロデュースをしながらレコーディングが行われた。6月22日、 ブラー の大規模な ダブリン 公演にゲスト出演。3万5千人の観客の前で新曲「リチャード三世」など14曲を披露した。11月、 ザ・スミス のトリビュート・アルバム『ザ・スミス・イズ・デッド』に「サム・ガールズ」のカバーを提供。
1995年より地元での7年間の活動でデモと3枚の
この年にワールド・ツアーの一環で初来日を果たすも、やんちゃが過ぎて宿泊したホテルの一室を破壊してしまうという事件を起こす(このことは本国でも話題となった)。
シングル「カンフー」(全英57位)がスマッシュ・ヒットした 1995年 から彼らは「恐るべき子供たち」として脚光を浴びるようになる。