ザ・ランナウェイズ

1979
ザ・ランナウェイズ 1979年 、より パンク・ロック 的なアプローチを主張するジェットと ハードロック

1979年 、より パンク・ロック 的なアプローチを主張するジェットと ハードロック を追求したいフォード、ウェストの意見の不一致などもあり 、ザ・ランナウェイズは解散した。

1978
ザ・ランナウェイズ 1978年 、金銭問題など様々な意見の不一致が原因で、結成以来のパートナーであったフォーリーと袂を分かち、マーキュリーとの契約も破棄。

1978年 、金銭問題など様々な意見の不一致が原因で、結成以来のパートナーであったフォーリーと袂を分かち、マーキュリーとの契約も破棄。 ブロンディ やスージー・クアトロを手がけたトビー・マミズとマネージメント契約を結ぶ。同年11月、ブルーが健康問題で脱退。 ローリー・マカリスター ( 英語版 ) に交代。この間、彼女たちは荒れたロックンロール的ライフスタイルを満喫する。同年、 シン・リジィ のプロデューサーであるジョン・アルコックを迎えて制作したアルバム『クレイジー・ナウ』(And Now… The Runaways)をリリース。

1977
ザ・ランナウェイズ 1977年 、セカンド・アルバム『クイーンズ・オブ・ノイズ』(Queens of

1977年 、セカンド・アルバム『クイーンズ・オブ・ノイズ』(Queens of Noise)をリリースし、ワールド・ツアーを敢行する。折しも勃興した パンク ・ムーブメントにも後押しされグループの勢いが加速する。同年夏に初来日。彼女たちは当時の日本におけるレコード売上げで アバ 、 キッス 、 レッド・ツェッペリン と肩を並べるセールスを誇る人気グループであり 、空港には大勢のファンが押しかけ、現場は大混乱に陥った。この時の喧騒をジェットは後に「まるで『ビートルズ旋風 』」と回顧している。日本では特集番組をはじめ数多くのテレビ番組に出演。東京公演を収録した『 ライヴ・イン・ジャパン 』はゴールドディスクに認定された。しかし滞在中にフォックスが脱退を表明。後任に ヴィッキー・ブルー ( 英語版 ) を迎えたが、続いてグループの看板であるカーリーまでもが脱退し 、それまでもカーリーとボーカルを分け合っていたジェットがフルタイムのシンガーとなる。

1976
ザ・ランナウェイズ フォーリーのマネージメントの下、 1976年 に マーキュリー・レコード と契約し、直ちにデビュー・アルバム『

フォーリーのマネージメントの下、 1976年 に マーキュリー・レコード と契約し、直ちにデビュー・アルバム『 悩殺爆弾〜禁断のロックン・ロール・クイーン 』(The Runaways)をリリースする。シングルカットされた「 チェリー・ボンブ (Cherry Bomb)」はビルボード106位( Billboard Hot 100 )を記録。カーリーは デヴィッド・ボウイ 、ジェットは スージー・クアトロ 、フォードは リッチー・ブラックモア と ジェフ・ベック 、ウェストは ロジャー・テイラー 、フォックスは ジーン・シモンズ をそれぞれイメージして、自らのキャラクターを育てていった 。

1975
ザ・ランナウェイズの歴史は 1975年 終盤、 カリフォルニア州 ロサンゼルス で サンディ・ウェスト (ドラムス)と ジョーン・ジェット

ザ・ランナウェイズの歴史は 1975年 終盤、 カリフォルニア州 ロサンゼルス で サンディ・ウェスト (ドラムス)と ジョーン・ジェット が(リズム・ギター)が、プロデューサーの キム・フォーリー の紹介で知り合ったところから始まる。ウェストの自宅で対面した2人は意気投合し、フォーリーにメンバー探しの支援を依頼。 ミッキー・スティール (ボーカル、ベース)を迎えてパワー・トリオとして活動を開始し、ロサンゼルス近辺のパーティ会場やクラブで演奏した。